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【第161回 芥川賞 候補作】高山羽根子「カム・ギャザー・ラウンド・ピープル」
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【第161回 芥川賞 候補作】高山羽根子「カム・ギャザー・ラウンド・ピープル」

2019-07-12 10:00
     ヘルメットは、世の中のほかのものに比べたらほんのすこし進化とか改良の速度が遅い気がする。今みんながかぶっているものは、その性能はともかく見た目は私が子どものころとあんまり変わっていない。いざというとき以外必要ない、ふだんからかぶっていなくたって不都合なんかないといったって、非常用だったらすくなくとも、手が届くくらい近くに置いておけるものであるべきなんじゃないだろうか。もしくはかぶっているということが遠くからでもわかるように、わざとこんな大げさでものものしい雰囲気のままなんだろうか。たとえば、オートバイに乗る人(聞くところによると私が生まれる前、お母さんとかおばあちゃんが若かったころはオートバイに乗るときにヘルメットは要らなかったとか)、大地震、工事現場、デモとかそういう暴動。私はそのどれも経験がないので、自分のヘルメットを持っていたことはもちろん、かぶったという記憶もほとんどなかった。

     おばあちゃんの顔は、冬空の下で何日も天日干ししてからしょうゆで煮しめたみたいにぶくぶくで、くちゃくちゃで、どんより黒くて、ものすごくきれい……とはちょっと言いづらかった。なのに、いっぽうでどういうわけか背中はものすごくつるつるで、ふっくらしていて、白くてなめらかだった。たぶん、当時のお母さんの背中よりも、そうしてちゃんと見たことはないけど今の自分の背中よりもきれいだったんじゃないだろうか。
     と考えてみて気がついた。そうか、今の私と、あの当時のお母さん、ほとんど同じ年齢なんだ。
     あのときのおばあちゃんの背中に吹きでもののひとつもなくてすべすべだったのは、私や私のお母さんがこれからの人生で乗り越えなくちゃいけない、女の人のめんどうくさいいろいろなイベントをひととおり済ませて、ホルモンのバランスとかいうものの問題をきちんとひとつずつ解決していった、おばあちゃん自身へのごほうびだったんじゃないだろうか。
     とにかく、うっかり見てしまうとそれから長いこと目が離せなくなるくらい、あのときのおばあちゃんの背中はきれいだった。
     ただ残念なことに、人はたいていの場合、顔を見て相手を認識するようにできている。免許証でもパスポートでも、どれだけひと目でその人とわかるくらい特徴のあるところだとか自信がある美しいところが、顔ではなく体の別の場所だったとしたって、やっぱりどうしても顔の部分の写真が使われるのだ。
     私はふと、人間以外の、人間からはどう見てもみんな同じに見えるような小さい生きもの、たとえば虫なんかでも、やっぱりそれぞれ顔はちがうんだろうかと気になった。彼らはどうやって、どこを見てお互いを区別して、恋愛やケンカをしているんだろうか。
     あっぱっぱ、という冗談みたいな呼び名の服があった。方言だったのか、昔に流行した商品名かなにかだったのか、よくわからない。それはワンピースというにはずいぶん乱暴なつくりの服で、病人とか、弥生時代の人とか、どっかのサバンナに住む人が身に着けているものに似た、首と腕を通すための穴を開けただけの布だった。おばあちゃんはその服をとても気に入っていて、私の思い出のほとんどのシーンで、おばあちゃんはあっぱっぱ姿だった。
     おばあちゃんのお気に入りのあっぱっぱは、首を通すところが洗濯でくたびれてとても広く開いていて、いつも座って背中を丸めていたおばあちゃんは、背中の上三分の一くらいがつるっと見えてしまっていた。後頭部の下、白髪と黒髪がごちゃごちゃに生えているうなじのところから、イボだとかシミがまだら模様になった肌が、肩口に向かって急なグラデーションで白いサテンみたいになめらかな質感の肌にかわっていた。おばあちゃんのあっぱっぱのうしろ姿は、なんだか危なっかしくて、幼いころの私でさえもけっこうどきどきしてしまうものだった。
     まったく関係ないけど、昔、ラッタッタ、という冗談みたいな呼び名のオートバイもあったらしい。ヘルメットをかぶって乗っていたのかどうかは知らない。
     扇風機は仏壇のある和室の窓際、そのあたりだけ板張りになっている部分の床に置かれていて、仏壇に対面して座るおばあちゃんと、うしろにいる小さいころの私の側面にむけて首を振りながら、順番にぬるい空気をぶつけつづけていた。私、おばあちゃん、私、おばあちゃん、私。おばあちゃんのほうに風が行くたびに、白と黒のまだらの毛がなびく。生え際の肌に頭皮からにじみ出た汗が首から白く光る背中に伝って流れ落ち、あっぱっぱの布地に浸みこんで、周辺のちょっとの部分の生地だけ水分を含んで、ほんのうっすらと暗い色にした。
     おばあちゃんの体の中で一番きれいなところは、まずまちがいなく背中だった。こういうことは私みたいな子どもがかんたんに口に出しちゃいけないと思っていたから、家族にきいてみたことはないし、みんなはそのことに気がついていないかもしれないけれど、これは事実として揺るぎがなかった。
     そうして、二番目にきれいなところは意見がわかれるところかもしれないけれど、声だったと思う。ただ、私が気に入っていたのはおばあちゃんがふつうにしゃべっているときの声じゃなかった。おばあちゃんがふつうにしゃべっているときの滑舌はそれほどよくなかった。言いまちがえたり、つっかえて嚙んだりすることも多かった気がする。ただなぜか、おばあちゃんは仏壇の前でお経を読むときの声だけがとても魅力的だった。ふだんの生活では聞かないような、意味のわからないややこしい言葉だったからだろうか、なんだか年齢不詳の、知らない大人の女の人の声に聞こえた。
     
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