ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。
「逸脱」としての「遊び」と「同化(洗練)」としての「ゲーム」、両者の「循環」がある種の理想として語られがちなゲーム研究において、その視点の妥当性を改めて検討し直します。
井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて
第37回 第5章-4 「循環」概念をめぐって
5.4.1 遊ぶ/遊ばれる
「循環」概念は、遊び-ゲームをめぐるキー概念の一つである。
そして、おそらくこの、遊びの「循環」をめぐる現象は遊び-ゲームをめぐる多様な現象を、一つの現象のような形で統合させている主犯の一つであろう。
遊び-ゲームをめぐる循環の問題は、特にドイツ系の遊び-ゲームの論者(およびそれに影響を受けたドイツ哲学に強い研究者)においては強調される。
シラーの議論の後、20世紀前半にはボイデンディクが、シラーやフロイトへの批判を行う。ボイテンディクによれば、シラーやフロイトの議論が主観的な精神活動の内部の活動のみに注目しており、その外部との関係が意識されていないということに着目しはじめた。
ガダマーもボイテンディクの議論を読んだ上で「すべての遊びは遊ばれることだということである。」と述べる[1]。ガダマーは「遊び手」が状況を制御するという特権性を持たないということを述べるため、いくつかの例を挙げている。一つには、遊び相手の必要性である。ガダマーは次のように述べる。
「遊びであるためには、たしかに現実に他者が加わる必要はないにしても、遊ぶ者の遊び相手、すなわちその一手に対して自ら逆襲する別のものがいつも存在しなければならない。遊んでいる猫が毛糸の玉を選ぶのは、毛糸の糸が一緒に遊んでくれるからであり、ボール遊びが無限に続くのも、いわばそれ自身が思いもよらないことをしてくれるボールのまったく自由な動きによるのである」[2]
西村清和もガダマーやボイテンディクの視点に影響を受けつつ「遊びつつ、遊ばれる」[3]という視点を重視し、遊びに関わる広範な現象をこの視点から説明しようと試みている。
ガダマーの述べるとおり、遊ぶという行為は、遊び手が全てを制御できるものではない。遊ぶという一連のプロセスは遊び手の意図の外側にあるものによって遊ばれる現象でもある。
この循環的な側面は、かなり広範な説明力をもっている。 まずは、前回の最後で述べたとおり、循環的な概念の「理想化」の問題から議論をはじめることにしよう。