
*この記事は2016年10月に掲載したものです
レスリングオリンピック代表からプロレスに転向、新日本プロレス、ジャパンプロレス、全日本プロレス、SWS、SPWF、PRIDE出場……流浪のプロレス人生を送ってきた谷津嘉章がすべてを語るインタビュー連載の第1回!(聞き手/ジャン斉藤)
――谷津さんに濃厚なプロレスラー人生を振り返っていただきたくて、小田原の国府津までやってまいりました!(当時は谷津さんは国府津「はかた亭」を営んでいた)
谷津 わざわざご苦労さん。そうだなあ。アントニオ猪木さんに騙されたのかなあ(苦笑)。
――ハハハハハハハ! 谷津さんといえば、まずはレスリングのオリンピック出場に触れないわけにはいかないですよね。
谷津 俺は足利工大附属高校でアマレスを始めたんですよ。そこの学校の後輩には三沢(光晴)や川田(利明)なんかがいるんだけど。俺はそんなにアマレスはやりたくなかったんですよね。自分は中学のときはルンペンだったから。
――ルンペン?
谷津 帰宅部で何も運動をやってなかったんですよ。いまはさ、ちびっ子レスリングが盛んですけど、昔は柔道や相撲からレスリングに転向する奴が多かったんです。吉田沙保里や伊調馨は小さい頃からレスリングをやってたでしょ。
――谷津さんは高校から始めてすぐに頭角を現したんですね。
谷津 覚えるのが早くてね。国体で優勝して、高校2年のときにひとりだけ選抜チームに入ったし。周りはみんな先輩ばっかだから行きたくなかったんだけど。
――覚えるのが早いどころじゃないですね(笑)。
谷津 モントリオールオリンピックは20歳のときに出ましたからね。俺はオリンピック村で20歳の誕生日を迎えたんですよ。
――19歳で! それはかなり異例だったんですか?
谷津 格闘技では異例ですね。まあレスリングを始めてわずか数年の出来事ですよ。
――それはつまり相当強かったんですね。
谷津 うん。
――さすが「日本重量級史上最強の男」ですね(笑)。
谷津 それがいいんだか悪いんだかね、人生そこで変わっちゃいましたよね。そこから車屋なんかで働こうなんて思わないじゃないですか。どんどんとレスリングのほうに見出されていっちゃうわけだからね。
――当時はオリンピックレスラーいえども待遇はあまりよくはなかったんですよね。
谷津 全然ですよ。その次にモスクワオリンピックがありましたよね。アメリカとの政治的事情で日本はボイコットしちゃったけど。
――谷津さんが出場すればメダルは確実だったと言われて。
谷津 まあ、やってみなきゃわからないですけどね、それは。あの1年2年手前くらいから待遇がよくなってきましたね。強化指定選手というのがあってね、ABCとランク付けされるんですよ。それぞれ栄養費として毎月お金がもらえるんだけど。自分はね、重量級の中でBだったんですよ。
――Aクラスじゃないんですね。
谷津 Aっていうのは世界選手権のチャンピオンクラスですよ。Bってのはアジア大会クラス。Cは強いかな弱いかな、とりあえず強化指定って感じで。19歳でBは俺しかいなかったんです。それはアジア大会優勝したから。
――Bだと栄養費はどれくらい支給されるんですか?
谷津 Bはね、月5〜6万円もらってたかな。あと遠征費も全部じゃないけど協会が出してくれる。それだけじゃ足りないから世界選手権に出るときなんかは県庁や地方自治体に挨拶に行って、壮行会をやってもらって資金を集めるんです。いまでもスポーツ選手というのはね、周囲の応援がなきゃできないですから。そっちに忙しくて練習できなくて勝てなかったなんて言い訳だからね。強い奴は強いですから。
――当時は“日本レスリングの父”八田一郎さんがレスリング協会の会長でしたけど、練習方法がとにかく独特で厳しかったんですよね。
谷津 根っからの怠け者の俺でさえ、あの頃は練習をやってましたよ(苦笑)。練習は1日10時間。朝練、昼練、夜練。練習方法も異常。たとえば1年間、左手で飯を食えとか。
――利き腕じゃないほうを使いこなせるように。
谷津 強化選手が合宿に行くじゃないですか。朝いきなり起こされてね、上野動物園に連れて行かれてライオンの檻の前で寝るとかね。
――ハハハハハハハハ! 精神修養ですね(笑)。
谷津 「かつて日本はロシアのバルチック艦隊に勝ったんだから、おまえらもロスケに負けちゃいかん!」とよく言われましたよ。「なーんか時代錯誤だなあ……」とは思ってたんだけど。「強いところで練習しないと強いくならん」という方針で、強い選手に揉まれて精神的コンプレックスを払拭しろと。「ロシアは強い」という潜在意識があったけど、一緒に練習すればなくなるだろうっていう発想なんですよ。だから俺も2ヵ月くらいモスクワに住んで向こうの選手と練習しましたよ。
――当時はソビエト連邦として未知の国で。
谷津 相撲でいう心技体の「心」で負けちゃいけない。「強い」という先入観があると落ち着かなくてどこかで上ずっちゃたりしてね、ホントの実力が出ないうちに勝負が終わっちゃうから。
――トップクラスになると精神が重要になってくるわけですね。
谷津 心が一番大事。あとで自分もプロレスデビューするわけじゃないですか。スポットライトを浴びてお客さんがウン千人も見てる。もっと大きな会場だと何万人もいるでしょ。異常な大歓声とスポットライトの中で「……これ、何をやったらいいの?」と戸惑ったこともありましたよ。
――レスリングで実績を積んでいてもジャンルが違うと戸惑うもんなんですね。
谷津 ガチンコだったらできますよ。ガチンコじゃなくて、プロレスはある程度、技と技を競うわけだから。ガチだったら、そりゃあ楽ですよ。プロレスは難しいです。
――谷津さんはモスクワ五輪ボイコットによりプロレス入りをするわけですよね。あのボイコットで五輪出場が絶たれてしまい、涙を流した選手は多かったですけど……。
谷津 俺も「ありゃまあ」って感じでしたよ。
――「ありゃまあ」ですか(笑)。
谷津 卒業して2年間は学校の職員をやりながらオリンピックを目指していたのに、その目標がなくなってしまったから。あっちこっちで4年間練習して、けっこうなお金も使ってたじゃないですか。100万200万という単位じゃないからね。モスクワがダメになってこれからどうするかって考えたときに「そうだ、アレがあったなあ……」って。それがプロレスですよ。
――たとえば教師や指導者という道もあったと思うんですけど。
谷津 うーん。その頃はオツムが足りなかったせいか、その考えはなかったね。まだ若かったからね、自分の身体を使って何かをやりたかったんですよ。
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