<サスペンス音楽がサスペンス映画を殺す時~アルフレッド・ヒッチコックによる、妻という女性/女優という女性、そして音楽という女性への嫉妬と殺意のアンサンブル>
前編
大分時間を経てしまったが、今回は前回の実質的続編である。執筆が遅れてしまったお陰で、映画『ヒッチコック』の公開に重なるというシンクロが生じたのは痛し痒しといったところである。前回の「ゴダールと音楽」と結びつきながら完結する長い論考となるので、前後編に分ける。
以下、映画『ヒッチコック』のネタバレが過度にならぬよう、更に言えば、この論考をお読みいただくことが、映画『ヒッチコック』への誘導、更にはアルフレッド・ヒッチコックの全作品への誘導になることになるべく留意しながら書き進めることにする。この連載自体のテーマであり、デジタルアーカイヴ・コンテンツ・ビジネス時代の到来に向けたテーマでもあるが、我々は古典にあたらなければならない時代に入った。
映画『ヒッチコック』は、『サイコ』(60)の制作過程を舞台にしたハリウッド映画で、ヒッチコッキアン(既に死語ではないかという思い払拭し難し)やシネフィルのみならず、一般的な観客も大いに引きつける大衆性を持った、所謂(21世紀になってから静かに群発している)「20世紀の偉人伝(それは正に「フロイトからヒッチコックまで」とも言うべきラインナップなのだが)」系列の作品で、今回の論考の主役でもあるヒッチコックとバーナード・ハーマンの関係も小エピソードとして描かれるが、作品全体は夫婦愛、つまり妻と夫という人間関係を描いたものだと言える。
愛には不可避的に殺意が含まれる。現在ではすっかり「一時の恋愛、あるいは恋愛初期、あるいは成就されぬ恋愛には殺意が生じやすい(ストーカーとかヤンデレだとか)。だが長きに亘るパートナーシップには殺意など生じない(素晴らしい夫婦愛だとか)」といった愛情観、関係観、殺意観が定着しつつあるように思われるが、これは愛というよりもむしろ、退行の産物である攻撃性の暴発を殺意視する幼児的な誤謬とも言え、本稿が指す「殺さねば自分の存在が危機にさらされる」といった、のっぴきならぬ「他者への殺意」は、幻想性の高い恋愛の初期、もしくは準備期よりも、様々な共依存が社会制度と結びついて構造化した時、例えば夫婦関係、例えば学校という制度内での虐め、例えば映画監督と主演女優、そして、映画監督とその音楽監督、純化すれば、視覚と聴覚といった諸関係の中に強く現れるものである。