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<ビュロ菊だより>号外『第87回アカデミー賞直前予想(「直前」はギリ挫折)』
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<ビュロ菊だより>号外『第87回アカデミー賞直前予想(「直前」はギリ挫折)』

2015-02-23 20:12

     先日から凛子さんはLA入りしており、要するにあのハリウッドの祭典の前夜祭的なパーティー三昧になっているようなので、「一番高いビルの屋上に登って空中から散布して下さい」といって、「戒厳令」を3000枚(日本国内で売れた総売上よりやや上)彼女のホテルに届けました。

     という訳で、日本時間であと10時間もすると発表になってしまうので、まあ、ガチ予想する。という話ではありませんが(後述しますが、そもそもノミニーを全作は観ていないので)、ちょっとした遊びとして、あくまでワタシなりの予想と、ノミニーの評を書いてみようと思います。

     余り知られていないかもしれませんが、ワタシは「UOMO」という雑誌で「売れてる映画は面白いか?」という連載を、気がつけばもう3年も続けていまして、こちらは執筆連載ではなくインタビュー連載で、上がりをチェックするだけなのですが、とはいえ、今から評するノミニー作品の多くがこの連載の為にマスコミ試写で観たものであることを最初に明言してから始めます(要するに、転売/二度売りの類いではありません)。
     

    ワタシが観た作品は
     

    「アメリカン・スナイパー」

    「6歳のボクが、大人になるまで」

    「セッション」

    「バードマン」
     

    の5作品で、未見なのは
     

    「グランド・ブダペストホテル」

    「イミテーション・ゲーム」

    「セルマ」

    「博士と彼女のセオリー」
     

    の4作品です。

     

     特に、下馬評の高い「グランドブダペストホテル」と「博士と彼女のセオリー」は観ておきたかったのですが、間に合わず、後日自腹で観に行こうと思いますが、いくら遊びとはいえ、半分しか観ていないのにも関わらずこうやって発進してしまうのは、ワタシのダントツイチオシが「バードマン」で、実際に受賞するかどうかは兎も角、1990年以降の映画の中では最も優れている、映画史をアップグレードさせた名作で、今回のノミニーの中でもブッチ切りの出来だと確信しているからです。

     
    各評ともネタバレが含まれますので、お読みに成る方はご注意ください。また、書き始めが日本時間2月22日の21時なので、書いているうちに発表されてしまい、発表後にサイトにアップ。という事になるかも知れませんが、その時はまあ、時間掛けすぎてせっかくの遊びが台無しになった。と思って下さい。
     

    *    *    *    *    *   
     

     という訳で「バードマン」イチオシ(実際にとれるかとれないかは別として)、のワタシですが、それでも今年は久々に粒ぞろいで、昨年、一昨年、三年前のノミニーと受賞作の一覧(私感では「ていたらく」と言ってほとんど問題ないです)と比べると、アメリカというのは、逆説的に(解っているとはいえ)今、相当重症なんだな、と思います。  

     

        「アメリカン・スナイパー」
     

     この作品を「単にイラク戦争賛美ではなく、戦争と人間、その矛盾や相克をきちんと描いている」とする立場が多い様に思うのですが、ワタシは立場が異なります。

     ワタシにとってこの作品は「とうとう出ちゃったイラク戦争西部劇」であって、これがイーストウッド作品の興行成績を塗り替え、アカデミー賞のノミニーになるアメリカのヤバさ(物凄く納得出来るので)をひしひしと感じ、嫌だなあ。ヤバいなあ、凄いなあアメリカって。本当に。と思っています。

     勿論、この作品には

    1)<友軍の数十メートル手前で、イラク人の女と子供が小型のランチャーを持って、自爆ぎりぎりの攻撃を仕掛けようとする、それを見て、止めろ、、、その武器を捨ててくれ、、、、と逡巡する主人公(狙撃手)>というシーンがあり

    2)ストーリーの大オチは<戦場TPSD(イラク戦争は、二次大戦やベトナム戦争を超えて、この患者を大量に生んだと言われています)に精神を蝕まれた仲間を、「射撃を教える」という、個人的に編み出した療法によって、自分の復員後ずっと治療活動に勤しみ、とうとう最後はその治療中の事故によって命を落とす主人公(実話)>であり

    3)ラストの葬儀パレイド(ニュースフィルム/実写)を終えてのエンドロールでは、黙祷さながらの「長時間の無音」状態がある
     

     といった点から、前述の「単なるイラク人をインディアン扱いした西部劇ではない」という担保を掛けまくっていますが、ワタシにはそれが、いけ図々しい、或は自らも気がついていない、上辺だけのエクスキューズにしか見えませんでした。
     

    <1> は、イスラム国問題に揺れる中、我が国のテレビCMでは、ここをこの映画のキモであるかのように、短時間で感動的にピックアップしていますが、主人公の逡巡は一瞬で、結局子供は射殺されるか、或はされませんが、主人公がその事に思い悩み、例えば次から、女子供だけではなく、狙撃自体が出来なく成ってしまう。といった事は全くありませんし、一瞬のこの逡巡がストーリを大きく左右するとか、主人公のトラウマになる。という描写もありません。「さすがに子供の時はね、、、、あんときはね、、、、」という挿話以上でも以下でもなく、主人公は得意の狙撃でバンバン敵兵を殺して行きます。
     

    <2> は、さすがに実話なのだからして(後述しますが、この映画は、実話――主人公の評伝――に基づいているのですが、戦場シーンのトーンと退役後のシーンのトーンがかなり違います)さすがにリアル、というか、もともと子供時代から狩りが得意で、父親に銃による狩猟を習い、褒められ続け(因に主人公の兄はヘタクソ。因みに、この兄は戦場TPSDを患いますが、そのまま映画から退場するだけで、主人公との対立や葛藤は一切描かれません)長じて名狙撃手となる、「狙撃一筋」の主人公が、その侠気から(主人公は家族も愛しまくりますが、それとギリ拮抗するほど、戦友を愛する、軍人の鏡です)TPSDに陥った仲間(実際に同じ部隊にいた。とかではなく、イラク帰りでそうなってしまった人はくまなく)を、自分のアイデンティティである「狙撃術」を使い、森に行って、2人で銃を撃ち、教えて行きながら癒すという治療を続ける、という、とんでもないリアルを見せます。

     この「治療事故」で主人公は命を落とすのですが、映画では死ぬシーンは無く、黒バックの字幕のみの説明で「この日、○○○(主人公)は射殺された」と出ますが、原作を読んでいないので解りませんけれども、単なる誤射によるものなのか、素人治療が故に失敗し、患者(いかにも危なそうな奴。という描かれ方をします)が錯乱して主人公を撃ってしまったのか、そしてそれはアメリカでは周知の事なのか、そうでもないのか、一切解りません。

     おそらくこの作品を「西部劇」と観ない人々は、このリアリティの痛みによって「単なる戦争賛美ではない」という見方をしたと思うのですが、ワタシは引っ張られません。

     それは、イーストウッドが、明らかに楽しんで、ノリノリで撮っているのが伝わって来るからです。

    イーストウッド/マルパソは、ここ数年、マッチョの代名詞でもあったダーティーハリー自身が老境に入り、「アメリカが反省する」作品を、単なる懺悔ではなく、非常に高度に構造化された脚本でもって、巧みに、そして力強く製作して来ました。

     「グラン・トリノ」こそはその頂点で、「アメリカのマッチョが、映画で反省する」という、非常に難しい行為それ自体を、老境のイーストウッドが見事にやってのけた奇跡的な作品で、脚本は「アメリカ像」を、現代、過去(主人公は朝鮮戦争での敵兵殺害をトラウマにしたまま老人まで生き延びています)、未来」と見事に描き分け、中でも「過去」の中の「輝かしい部分」と「懺悔しないといけない(ケリをつけないといけない)部分」を対置させる事で、「こんな凄いモン、よく作ったな」といった圧倒的な説得力を持ちました。

     この作品こそ「アメリカの病理である、反復される戦争。を、戦争賛美、もしくは許容、もしくはシンプルな反戦、のどれとも違う、見事な距離感で描いた傑作」で、これ以上はないかもな。とワタシは思っていました。

     その後、イーストウッド/マルパソは案の定、これほどの結晶度を持つ完成品は作らず、良い湯加減の感動作を撮っていたのですが、たとえば「ジャージーボーイズ」などは、音楽映画として本当に優れていると思いますが、イーストウッドがディレクターズ・チェアに座った総時間は、おそらく5分以内だとしか思えません。

     あれはマルパソの下っ端が作っても、外部の娯楽映画監督が作っても同じクオリティの、つまり「イーストウッドのリビドー」が全く伝わって来ないのです(とはいえワタシは、それがいけないと言っているのでは決してありません。後述する、音楽映画として、吐き気と怒りが止まらない「セッション」等の比較にならないほどの良心的作品です)

     一方「ザ・スナイパー」は、それがビンビンに伝わって来るのです。モロッコにイラクの戦場を見事に再現させ、もうイーストウッド、ノリノリでディレクターズチェアに座り続けたろうな。銃撃指導とかもしちゃったりして。と思わせる興奮が戦闘シーンに満ちていて、そこには後半の、暗さや後ろめたさが全くない、痛快でカッコいいリビドーが出まくっているのです。

     繰り返し、これは、逆説的な担保によるものだとするのが妥当でしょう。「ああいう亡くなり方をした、実在の人物を描けば、イラク戦争正当化万歳映画になる訳が無い」という前提によって、さあ、戦争シーンは完全に西部劇に。という風にワタシは見えました。

     それが何より証拠には、西部劇時代から一貫している「敵は残虐な殺し方をする蛮族である」というアメリカの最もファックな合理化をぬけぬけと使っているからです。

     悪漢であるイラクの殺し屋は電気ドリルで子供の頭に穴をあけて殺そうとしますし、ラストの大立ち回りのフック/キックになるのは「天井から鎖で吊るされて、見るも無惨な拷問を受けた仲間の遺体」「切り取られ、並べられた身体の部位」で、このセンテンスに於いては「ランボー/怒りのアフガン」と大差ありません。

     ワタシは、実際のイラク戦争時に、あの愛すべき、理性的なデイブ・スペクター氏が、テレビのワイドショーで、「でも、大量破壊兵器なんて本当にあるんですかね?」的な発言に対して、目をまっ赤にし、口角泡を飛ばして「だって、フセインというのはとんでもなく残虐で、非人間的な存在なんですよ。だって、自分の反対分子を、シュ、シュレッダーにかけて、生きたままシュレッダーにかけて殺すのを見てる様な人物なんです!!信じられますか」とガチエモで訴えるのを見て「えー。オレのデイヴでさえもが、この病気にかかってんのか、、、」と、本当にがっかりした事がありました。

     バッファローとネイティヴアメリカンを、とても文章では書けないほど残虐に殺して楽園を築いたアメリカ、彼等は<頭の皮を剥ぐインディアンや、ドリルで子供の頭に穴を空けようとするイラク人を、正義の銃弾で殺すのは正義だ>と思い込まないと、罪悪感から発狂してしまうのです。
     

     とはいえ、ミエミエの合理化なんか、とっくに通用しなくなったかに見えた現代に於いて、イーストウッドはイラク戦争をどう描くのだろう?ま、ま、ま、まさか。と思っていたワタシは「いい加減もう止めろや。<敵は蛮族>の繰り返しは。でもリビドーでてっから超興奮しちゃうなこの映画」と、ワタシは頭を抱えました。

     <貧乏で残虐なイラク人の電動ドリルは残虐だが、狩猟の名手でもある狙撃手が一発で仕留めるのは正義>という、幼稚で強力なロジックにワタシは乗れません。一瞬で痛みも無く(まあ、あると思うんですけど)射殺する事が、まるで武士道における熟達の剣術であるかのような解釈を強要されますが、巨大な近代兵器の力で空爆を含む圧倒的なテロを行い、誰にも見えない位置から隠れて撃つ事が武士道である筈がありません。そしたらイラク人は吹き矢の名人でも育てれば良いのか?映画は、この矛盾/拮抗に一切触れません。
     

    <3>に関してはゾッとした。の一言です。これは「西部劇ではない派」の人々も同じだろうと思います。無音という弔意が、主人公のみを超えて、愚かな全人類に向けられている、という広がりはワタシには全く見えず、かなり具体的に、軍人が執り行う葬儀の中に自分が置かれたようなリアリティによって、困惑するばかりでした。
     

     作為的/確信犯的だとは思えないので、悪質さは感じられませんが、この作品はイーストウッドが「やっちゃった映画」で、往々にして「やっちゃってる状態」というのはアドレナリン出てますから、戦争シーンは痛快で面白いに尽きます。

     アメリカは「過度に反省しすぎる映画」も「上手に反省する映画」も「開き直って反省なんか蹴飛ばす映画」も「反省した様に見せかけて実際はしていない映画」も作ります。「プライヴェートライアン」や「ソルジャーブルー」は「過度に反省する映画」と言えるでしょう。

     こうした一群が循環性/周期性を持つのは当然で、「グラントリノ」で、「上手に反省」の極点を打ったイーストウッドは、<エクスキューズ付きの痛快西部劇>を作ってしまったと思います。

     戦争賛美的な人物の実話を描いたって反戦映画は作れますし、反戦運動に殉じた人物の実話を描いたって戦争賛美映画は作れるのです。問題はテーマやストーリーではなく、映画のオーラと、作者の他の作品との比較検討です。

     この、平和ボケ&鬱病社会の日本で、TPSDさえ扱えば良心的であるかの様な風潮はいくらなんでも愚昧ではないでしょうか。昔日は「お涙頂戴」というDISクリシェがありましたが、「お塞ぎ頂戴」では、映画が持つ暴力性と平和性の核を読み取る力が失調してしまうでしょう。

     もしこの映画が痛快西部劇ではない、複雑なテーマを持つ映画だったとして、それがあれだけ長いキャリアを持つイーストウッドの作品中、興行一位になり、アカデミー賞ノミニーになるのだとしたら、アメリカは何と素晴らしい国で、世界はどんなに理知的で平和なのでしょうか。もうワーイズオーヴァーと言い切ってしまっても良い。公民権の公布から50周年という年に、黒人青年を白人警官が殺し続けている国。それがアメリカです。アメリカはぐじぐじ悩んで鬱になる事に飽き、久々の痛快西部劇に思いっきりポテンツを回復したのだとしか思えません。

     

      「6歳のボクが、おとなになるまで」

     

     「UOMO」誌上でワタシは、この作品に対して「志も誠意も感じるし、実験の実行力も凄いとしか言いようが無いが、残念ながら穫れ高が低い」と評しました。

     ワタシのどこが鈍感なのか、自己分析のとっかかりさえできていないのですが、ワタシはこの映画から重みも凄みも感じる事が出来ず、第一印象は「やっぱこれは、、、、<主演と顔が似ている子役を使って、ちゃんとコントロールした作品>つまり普通の作品と、あんま変わらないのではないだろうか?」といったものでした。

     この作品の製作手法は、映画史上始めての事ですし(結果として近似した類例としては、フランス映画に於けるジャン・ピエール・レオーなど、いくらかありますが)、その手法はとても誠実で志が高く思えるので、取りあえず誰も文句が言えません。
     
     まずこの段階で、この作品は知らず不誠実をおかしていると思います。どんな下らない、稚拙な歌詞でも、復興支援の歌ならば、とにかく文句は出ない。といった例えは極端ですが、いくらだって文句が言えそうな実験、例えばゴダールの3D、のようなものはいくらでもあります。
     
     実験的な手法というのは、「絶対に文句が出そうな物」と「絶対に文句が言えないもの」とが等価になります。ちょっと前に父親のホームムーヴィーを娘が撮っていたら、その父親がガン告知され、以降、死ぬまでを撮り続けた。というドキュメンタリー映画がありましたが、ああいうものと「実際に人がライオンに喰われる瞬間が映っている」のが売り文句だった映画、つまり「エンディングノート」と「グレートハンティング」は、その点は同じ映画なのです。なんか韻を踏んでいるような気もしますし。
     
     「どうなるんだろう?この実験。凄く興味あるな」と思わせてからの、成功か失敗か。これがフェアというものです。本作はその点で「ぎりアンフェアだな」とワタシは思いました。
     
     少年が青年になるまでを(或は幼女が少女になるまでを)、観て感動しない人は、相当な不感症と言えるでしょう。しかも劇映画で、気が遠くなるような苦労の果てに描いて、一瞥もくれずに平然と文句の付けられる人は、苛立ちが止められない病人ぐらいでしょう(いっぱいいそうですが)。
     
     「いや、これはお安い成長記録ウエットパフォーマンスじゃない。実際の少年の成長にあわせて脚本も書き換えるし、大変な博打だったんだ」という声はあると思います。
     
     少年は、そうでなくとも自我と生活が大変な危険にさらされる「子役」の中でも、際立って特異な経験をしましたから、最悪、自/他殺ぐらいしてしまうかも知れない。事故死してしまうかも知れない。降板してしまうかもしれない。
     
     ところが、少年どころか、キャスト全員が無事に健康で、少年は青年になるにつれ、アートを志し、若干の悟り傾向に着地します。ああ良かった。しかもとても良い感じ。だから映画として無事公開された訳です(勿論―――ワタシはそんな事は望みませんがーー少年が死亡を含め、あらゆる形で降板し、主人公を途中から書いた形で物語が続こうとも、制作が中断されようとも、この作品はドキュメンタリーとして公開されたと思いますが)。
     
     しかし、ちっちゃい子が青年になるに連れてそういう青年になった。それって珍しい事でしょうか?映画の中での「〇〇の少年期役」という技術の水準はとてつもなく上がりました。それで済まされなかったのでしょうか?そういう問題ではないのは解っています。これは運命の産物なのだと。しかし、総ての作品は運命の産物です。
     
     タイムラプス動画に代表されるように、時間の遅延や短縮を動画で観る喜びは、人間の本質的な快楽を刺激するらしく、この作品を「まるで高速度撮影で、つぼみがどんどん花開いて行くような、啓示的な美しさ」と捉える人もいると思います。
     
     しかしワタシには「10年以上続いたテレビドラマ(アメリカでは珍しい事ではありません)をダイジェストで観たような感じ」がしてしまいました。
     
     勿論、難癖をつけているのではありません。ワタシだって、キャストとスタッフの努力に報われて感動したかったのです。どんな、観た事も無い、唯一的な時間を魅せてくれるのだろう。コマ撮りのクレイアニメーションや、キューブリックが「宇宙の旅」で見せた魔術のような。でも、結果はぐるっと最初に戻って「獲れ高が低くないか」という地点に留まってしまいました。
     
     「これ実は、うたい文句は嘘で、半年で撮影した。主人公には兄弟が3人いるのであった」だったらどう思うかな?「主人公は実のところ麻薬でボロボロ。もっと続ける予定がドクターストップ。しかしそこは見せなかった」だったらどうだっただろうか?ぬるーい、変な想像ばかりしてしまい、素直に入り込めなかった。なんでこんなに温いんだろう?ワタシ自身に何らかの精神分析的根拠があるのだろうか。
     
     しかし、それだったら話は簡単ですし、こんなにモヤモヤしないと思います。何も感じないか、激しい拒否反応が出るか、でしょう。
     
     やはり、結論は「この実験の、完全にアンフェア、でもなく、フェアでもなく、<ぎりアンフェア>なところ」がひっかかっているのだと思います。そもそもこの実験の選択肢に「無事に撮了したとして、詰まらなかったら公開せず」はあったかな?と思ってしまいます。
     
     おそらくそれは、設定されていたとか、していなかったとか以前に、無理でしょう。こんなプロジェクト、前述の通り、死んだら死んだで公開価値を持ってしまいますし、「コレだけやってみて、結果、詰まらなかった」という冷静なジャッジ等、制作側に出来る訳がありません。どこに落ち着いても、それはリアルな人間ドラマなのですから。
     
     つまりジャッジは、我々見る側に委ねられている訳です。そんな事は自明です。しかし、もう人質を取られている気分。ぜんぜんスッキリしない。つまり、この映画をすっきり観る為には、そもそもこんな実験をしなければ良かった。という、ウロボロス的な結論になってしまいます。
     
     そうでなかったらこの映画は、一切の企画の説明をせず、黙って一般劇映画として公開し、観た人々が気づくか気づかないか、試してみる事で若干フェアさは増したでしょう(そんな事は現実的には無理ですが)。ブニュエルが遺作「欲望の曖昧な対象」で行った「主人公を、2人の女優が演じる。という事を、一切観客に知らせずに公開した」と、かすっています。
     
     途中で気がついた人は(因みにブニュエルの観客は「誰も違和感無く平然と観ていた」と伝えられています)、うわ。ひょっとして、ええ?これ?といったショックを受けると思いますが、それでもサプライズの域を出ないような気がします。
     
     ゴダールは、「ウォーホルの、ただ寝ているだけの人物を8時間も移し続けただけの映画があるが、あれは美しい。25分しか観るに耐えないとしても、その25分間は間違いなく美しい」と言いました。ベルイマンは「8時間必至で撮影して、使える時間は10分か、あるいはゼロだ。しかし、積み重ねるしか無い。完成の方法はそれだけなのだ」と言いました。そうした金言の真逆を行っている作品だと思います。
     
     「獲れ高が悪い」と感じさせてしまうのは当たり前で、何故なら、撮影されたフィルムは、積み立ての定期預金のように、絶対に使われるのだから(「ある年」を飛ばす。という事が出来ないという性質上)。最初から保険がかかりまくっている訳です。感動も、完成も。
     
     「商業映画に於ける、デジタル技術ではない、コンセプチュアルな実験性」の追求は、非常に重要です。その反面教師としての意義は大きいと思います。長文になったのでもう忘却してしまっている方もいるかと思い、最後に強調しますが、ここでの「ぎりアンフェア」さは、ワタシの評価であって、スタッフの意図的な物であるとは思いません。「コレ出されたら、取りあえず誰も文句言えないっしょ。へっへっへ」と英語で言いながら制作されていたとしたら、スクリーンに放火すべきでしょう。画面に映し出される顔、自然、人工物が総て美しく、そしてパトリシア・アークエットだけが、こうしたぎりアンフェアな土台の上で、奇跡的にフェアである、という、多分にフェミ二スティックな構造(「加齢」「女性」という事の独立性)に依る奇跡の御陰で、かなり悩ましい映画です。

     
          「セッション」
     
     
     
     ワタシはこの、憤りと吐き気が絶えないジャズ侮辱映画がアカデミー賞最優秀作品賞を受賞した際には、アメリカという国家の、白人の大学ジャズ関係者という異教徒どもが、ワタシのジャズという神を侮辱したという罪状で、一生をかけてもテロリズムを続ける事をここに誓いますし、グランプリを与えたサンダンスに対しては、馬鹿の運営する馬鹿の祭りとして認識する事に決定しています。あすこで賞を取った者は全員、馬鹿のお墨付きです。
     
     と、敢えて悪罵を重ねずとも、この作品とワタシの相性の悪さに関しては、以下の裏話を開陳する事で、そのほとんどが説明されてしまうかもしれません。
     
     ワタシは配給会社から、この映画の、「マスコミ向けのプレスシート」の評論原稿を依頼されました。「ジャズを大学で教える」映画ですから、ムチャクチャ的外れなオファーではありません。
     
     ワタシは、こうした依頼に際して概ね慎重で「先ず見せて下さい。書くか書かないかはそれから決めます」と返答するようにしているのですが(このプロセスを経て、「観たけど解説は書かなかった」映画は、解説を書いた映画よりも数多くあります)、あろうことか、世の摂理とはそういう物なのでしょうが、この作品に関しては、プレスキットを読んだだけで書く事を約束してしまったのです。「ジャズを大学で教える」映画だからです。
     
     ですので原稿は書きました。が、プレスシートには掲載されていません。
     
     引き受けた以上、常に最高の仕事をすべく誠実でありたいと思う、小市民的なワタシは、こんな映画にでも美点を探し、褒め、かつ、お金を払って鑑賞する方々への解説として面白く、ためになるものにしよう。と全知全能をかけて書いたのですが、結果、遠回しの、苦し紛れの、結果DIS。以上の物にならなかったからです。配給会社の方の名誉の為に申し上げますが、悪いのは観ずに引き受けたワタシです。
     
     以下、稿料は頂戴していないので、掲載不可とされた原稿は私の掌中にあり、ワタシに所有権がありますので、ここに公開させて頂きます。


     
    (*日本公開後にアップすることにしました) 
     
     
     ワタシの絶望と悲嘆が、七転八倒な滑稽さとともに伝わって来る名文だと思うのですが如何でしょうか。
     
     ワタシはこの映画を、大西順子さん(一緒にDVDを観たので)と共に、絶対に許しませんし、「許さない」などという純情可憐な気持ちが自分の中にまだ燃え盛る可能性があったのかと、自分自身に激しく驚いています。
     
     大西さんだけではありません。アメリカでこの作品を観たジャズミュージシャンの友人に、ワタシと大西さんは片っ端から感想を聞きましたが、怒っている者さえ少なく、苦笑か脱力、といった反応でした。
     
     アメリカでジャズが大学の教科となった事はジャズの歴史を大きく変えました。厳密には、そこに流れが向かった時から大きく変わっているのですが、取りあえずウィントン・マルサリスの功罪の内の、罪の部分だとはっきり言う事が出来ます。(この作品の中には、マルサリスの名前が出てきます)。
     
     ウイントンはスクエアでも何でもなく、大変なヒップですが、残念な事に、その志に比して、政治がヘタクソ過ぎ、白人のクソ共に搾取されまくった挙げ句、ジャズが、こんな陳腐なキッチュの素材に使われるのに最適なジャンルに成り下がってしまったのです。
     
     ヘヴィメタでやればこれは、抱腹絶倒の安心して観れる素晴らしいコメディになったでしょう。ヒップホップやファンクでは成り立たないでしょう。アメリカの大学のビッグバンドジャズだから成り立つのです。陳腐な侮辱と、特に面白くもない、悪趣味な空回りが、白人が仕切り、白人が学ぶ大学科目としてのジャズには、お似合いなのです。
     
     と、こうした「ジャズ/アメリカ/白人/教育」の話はワタシが話者である限り、とめどなくスリップして映画の話ではなくなる可能性があるので、ここでは壁を正拳突きで陥没させ続ける事で敢えて踏みとどまり、劇映画として、ジャズの歴史も現状も、一切興味が無い映画ファンの方に向けて続けてみます。
     
     この映画は「ジャズ版ファイトクラブ」「ジャズ版フルメタルジャケット」と言われています(両作には大変な侮蔑だと思います)、つまり、地下合法的な暴力と、悪夢的なハラスメントによって駆動する物語が、それによってでしか最早もたらされ得ない、ドン詰まりの現代のカタルシスをもたらす。といった、ある種サド的な聖性の輝きの有無ですが、ご覧になった方で、この作品からそういったカタルシスを得られたでしょうか?(ファイトクラブもフルメタルジャケットもご覧になっていないという方は是非ご覧になってみて下さい)
     
     「へえ、ジャズって、こういう事が、、、起こりうる世界なのかしらね。まあ、巨人の星みたいなカリカチュアなんだろうけど、でも最後、何か良くわからなかった。あれって何?裏切りな訳?」
     
     といった所なのではないでしょうか?その感想の中に「解らないけど、外様だから(ついでにいえば「菊地さんは関係者でもあるから、見方が深くなっちゃうんでしょうけど」)そんなもんなのかも、、、、」といった、放棄や距離感があったのではないでしょうか?
     
     しかし、あなたは、大学の、白人が白人に教えるビッグバンドジャズの外様でもあるかもしれませんが、非常に高い確率で、地下での喧嘩の大会の外様でもあるし、ベトナム戦争の兵役特訓の外様でもある筈です。
     
     素晴らしい作品というのは、素材が観客に近かろうと遠かろうと(衣服にまったく頓着が無い人にも「プラダを着た悪魔」は面白いように)、メッセージが伝わります。距離感は正直です。「映画館のポップコーン売りの子が可愛いかったけど、何か単に途中でフラれちゃうだけだし、、、、」という感想は至極もっともです。
     
     サンダンスのみならず、この映画に賞を与えた総ての審査員が受けたであろうカタルシスを、ワタシは安っぽくて邪悪だと感じます。SNS時代のカタルシスと言いましょうか。あくまでワタシにとって、ですが、「嫌な感じの欲求不満」「興奮ではなく、萌え」といった感じです。「萌え」が悪いと言っているのではありません。「萌え」が「カタルシス」の代替物であっては、セコくて気持ち悪いだけです。萌えは独立していれば立派な文化です。白人のハラスメント萌えなんかごめんだね。といった感じです。
     
     ワタシは、この映画を、世界中のジャズドラマーに必ず観て頂きたい。そして、侮辱された屈辱から一斉にスクリーンにアンチのテレパシーを送るべきです。そして、そのまま「バードマン」を必ず観て頂きたい。そして、大いなるインスピレーションと、ジャズドラマーである誇り、リズムという神の言葉に改めて耳を澄ます敬虔さによって、大いなる生命力を取り戻して下さい。今年のアカデミー賞最優秀作品賞のミニーは、ジャズドラマーを踏みつけ、そして蘇生させる2作品が並んでいます。 
     
     
          「バードマン」  
     
     
     ああもうWOWOWのオスカー特番が始まってしまいました。この作品はミッキーロークの「レスラー」なんかとは全く違います。「<昔、実際にスターだった俳優が、心機一転、舞台に挑戦するが>というストーリーは、実際のマイケル・キートンにそのままトレースされている」という、この作品の「メタレベルのポップさ」は、恐るべき事に、この作品の30%も占めていません。
     
     「バベル」「21グラム」はこの際、映画史から抹消しても全く問題ありません。明らかに映画という文化をネクストレヴェルに引き上げたこの作品については、後程ゆっくり。WOWOWのオスカー特番が始まりました。アヤパンがなんかふにゃふにゃした感じに熟成しています。 

     
    <授賞式を終えての追記>

     

     という訳で、「授賞式直前までにアップ」という遊びが挫折した、我ながら長いテキストでしたが、今、同時中継を見終えて、非常に満足しています。ああいうものは伏魔殿ですから、どんなに良い映画でも落とす事がありますが、まあ「バードマン」に賞を与えなかったら、アカデミー賞なんかなくなっても構わないと思っていました。

     

    以下は、ビュロー菊地のフェイスブックに、試写会を終えてすぐのほっかほかの状態で書いた物です。↓

     

    「バードマン」100点満点超

     

    若干取り乱しているので、落ち着いて書く事を心掛けますが、さっき20世紀フォックス試写会場で「バードマン」のマスコミ試写を見ました。 

    終わってすぐに事務所に戻れず、試写会場の向かいのカフェでクロックムッシュウでローヌの赤をやり、なるべく落ち着いて書きますが、1990年以降の作品の中では間違いなくベスト1だと思いますし、映画史に残ると思います。まだ感動にクラクラしています。 

    中南米マジックリアリズム文学の、明らかな継承。ガブリエル・ガルシア=マルケスが亡くなったとほぼ同時にこの作品が完成したというのは必然であると思いました。

    ワタシは「嫉妬」という感情が少なく、それは人が出来てるとか性格が良いとかではなく、単に病理ですが、監督のアレハンドロ・G・イニャリトゥはワタシと同い年で、腹の底から沸き上がる、殺意の様な嫉妬を憶えるほどの才能です。

    「バベル」のときは、ややとっちらかっちゃった世界感が、ニューヨークのブロードウエイに、箱庭的に整理され、シネフィルは100本もの記憶を読みが得させられながら、映画という芸術表現が、21世紀になってネクストレヴェルに引き上げられた状態を見せつけられることになります。

    映画に於ける音楽のセンスも、ネクストレヴェルに上がっています。これほどセンスの良い映画音楽は聴いた事が無く、殺意に苛まれています。

    脚本は4人体制、全盛期のフェリーニや黒澤と同じです。全員アルゼンチン人。もうアメリカから新しい芸術が生まれるのは南米の移民からしかないのかしら。日本は移民が極めて少ない国なので、バカに成ってしまったと思いますし、これからもっともっと移民を増やして行くべきだと思いました。評を書くので、長文が読めるという超能力をお持ちの方は「ビュロー菊地チャンネル」にご入会もしくはその記事だけお買い求めください。

    カフェからすぐに菊地凛子さんにメールしましたら(前述の通り「バベル」の監督なので)「いまベルリン(映画祭)にいますが、話題になってますね。配給はどこですか?」という返事がすぐに戻って来ました。

    配給は20世紀フォックスです。この作品がアカデミー賞を逃したら、もうアカデミー賞は(「セッション!」という愚作にGPを与えたサンダンスと並んで)信用しません。

    公開は4月です。お見逃しなく!!!!!

     

     

     (引用終わり)

     

     

     本文中でも触れましたが、総ての地球上のジャズドラマー、1人残らずに、この映画を観てもらいたいです。監督賞も受賞したイリャニトゥは、受賞スピーチで(ワタシの聞き取りなんで、60%ぐらいですが)「これは移民が撮った映画だ。移民の力を見てもらいたい」と言い、アメリカの移民排撃の動きを牽制しました。

     昨日の田中康夫サンとの対談で、ワタシは「移民政策に成功した国はローマ帝国以来ひとつもない」とおっしゃる田中先生に「その通り、ですから移民が必要なんです。ワタシはこの国が、混乱や破綻のリスクを負っても移民を入れるべきだ。今の問題の殆どは移民がいないからだ。と考えています」と申し上げました。イリャニトゥ監督に勝利のエールを送ります。凛子さんには「もしイリャニトゥに会ったら(凛子さんの出世作「バベル」の監督なので)<ファック。お前は映画史をネクストレヴェルに引き上げた>と伝え、「戒厳令」を渡して下さい」とメールしましたが、「戒厳令」だけでなく、総てのDCPRG、ペペのCDを渡してもらいたい。同じ移民の同胞として。

     

    (「バードマン」のまとまった評は、有料世界「ビュロー菊地チャンネル」に掲載しますのでお楽しみに)

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