ボブ・ディランの伝記映画(有名な自伝を元に映画化した。という意味ではない。オリジナル)「名もなき者」を試写会で見てきた。別に不快になったり、退屈したりとか、いわゆる20世紀的なネガティヴは何もない。
すっかり21世紀ハリウッドの標準装備となった「ある時代の再現性」もガッツリで、映画は60年、ハンチントン病で入院した伝説のフォークシンガー、ウディガスリーの入院見舞いに、ピート・シーガーもいる前にディランが訪れるところから始まり、65年、伝説のモンタレー・フォークフェスティヴァルで「エレキを持って、観客から命の危険を感じるほどの大ブーイングを食らう」ところで終わる。もう、AI老眼な僕だが、AIによって60年~65年のアメリカが再現されているとしか思えないものすごい精密度による再現だ。
ただ、これほど志の低い伝記映画を僕は見たことがない。呆気に取られた。アコギな商売というのは、こう言うのを指すためにある言葉だ。
この映画の価値は、「ティモシー・シャラメという、当代切ってのグランクリュの美青年が、ボブ・ディランという、風采上がらないギリギリの、異形の天才をやれるかね? やったらどうなる?」というゲスい興味、そのたった一点しかない。それ以外は、ただ、映画の時間分のシーンがくっついているだけだ。ジョーン・バエズもジョニー・キャッシュも、アルバート・グロスマンも大変良い。でも、良いだけで、映画の中で、ほとんど機能しない。
コメント
コメントを書く『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』、10年ほど前に観ていたはずなのですが、例によって全く内容を覚えていなかったので(笑)、先程まで観直していました。「ああ、この時点で『マルホランド・ドライヴ』の原型あったんだな」などの感想以前に、ラストにかけていきなりケネス・アンガー風味(とくに『花火』と『快楽殿の創造』)が強くなりすぎることに新鮮かつ大きな衝撃を受けました。
リンチの訃報を受けた時に、「そういえば、アンガーの作品からゲイ要素を抜いたような映像が出回り始めたのはリンチ以降だったな」と思いつつも書く機会はなかったのですが、『ローラ・パーマー最期の7日間』を観直してまさにそのことを想起しました。リンチ作品が「悪い(とされた)女の子が屠られる」タイプのテーマに傾いていった契機がこの辺りで、私などは端的に「ゲイ無しアンガーみたい」と思うわけですが、菊地さんがご指摘の「最後のレクイエムだけ劇伴ではなく規制曲(クラシック)」というのは、かろうじてアンガー(および、彼が偏愛していた「黄金期」のハリウッド作品)的要素が原型をとどめているようにも思われます。
「黄金期のMGMミュージカルとリンチ映画に共通する音響的特徴」について私なりの貧しい教養で考えたところ、「映画用に作られたわけではない既成音源のまんま使い」が技術的なポイントになるのかな? と思いましたが、、『ローラ・パーマー最期の7日間』エンドロールに入っているクレジットだけでは、あのレクイエムが規制盤からの引用(ゴダール的?)なのか/新規に用名して録らせたものなのか までは解りませんでした。
また、映画音響における統合失調性とは、「主観的に流れているだけなはずの “場面のテーマソング” が世界に溶け混んでしまい・そこに音源内のノイズまでもが含まれている状態」を指すのかな? と思い、その「主観の音楽が世界と同期しているがゆえの不調和=失調」の脈絡から菊地さんが仰っていることを理解すべきかとも考えましたが、やはり確信が持てません。私自身が黄金期のMGMミュージカルについて殆ど何も知らないためだと思いますが、ただ、MGMミュージカルの象徴としてフレッド・アステアとジーン・ケリーという「ゲイモテする細身のダンサー」が存在していたこと、『ローラ・パーマー最期の7日間』でもフレッドとジンジャー・ロジャースの名前が直接言及されること、あとマドンナの『ヴォーグ(1990年)』でも前記の3者はゲイアイコンとしてシャウトアウトされていたこと、などが 黄金期のMGM→アンガー→リンチ の線でなにか直接の意味を持つかもしれないように思われています。
>>1
「花火」と「快楽殿の創造」と「屹立する蠍」の引用は、確かリンチが語ったいたような気がしますが、リンチの言う事なんで笑、ちょっと曖昧です。
MGMは象徴としてであって、会社はどこでもいいのですが、要するにリンチの映画はミュージカルなので、そしてそれは統合失調性を強く持っていると思われ(オブセッションな感じが)、リンチは異端で、「普通の」ミュージカルは、ミュージカル、と言う風に考えられがちなんですが、リンチを見ると、「普通の」ミュージカル、と言うのも、ある意味リンチ以上に「狂って」いて、音楽とノイズが鳴りっぱなしの映画なんですよね。オペラの形式がアメリカでミュージカルになった。という説明は概ね間違っていませんが、では何故あんな変わったものが出来たのか?と考えると、幻聴が説明概念に介入せざるを得ません。
ラストに流れる礫えむですが、クラウディオ・アバド指揮の名盤ですので、リンチらしくDJ感覚でやったと思います。
>>2
ご返信をいただきありがとうございます。
あのレクイエムは既成盤使いなのですね。リンチは『ブルーベルベット』以降と大きく括って、映画監督の音楽への「岡惚れ」感がほとんど感じられないのが貴重に思われます。彼自身音楽レーベルを運営していたから、というのもあるでしょうけども。
私自身『最期の7日間』や『マルホランド』あたりは未だにどうかと思うのですが、『インランド・エンパイア』最後の『Sinnerman』使いだけは、リンチのDJ感覚の最高値を記録していると思います。男性の側から a troubled woman の運命を描くというのは、ラース・フォン・トリアーを最愚例として失敗の枚挙にいとまがありませんが、『インランド・エンパイア』で『Sinnerman』にいたるまでの流れは、フェミニズム平均の採点どころか性差や国境の限界すら突破した、奇跡に近い例だとすら思います。それを可能にしたのは間違いなく(リンチ本人ではなく、作品自体に宿った)発狂状態の力でしょうけども(笑)
20世紀には『オズの魔法使』とピンク・フロイドの『The Dark Side of the Moon』を同時にかけると完璧にシンクロするよとか、『2001年宇宙の旅』最終シーンと『Echoes』を同時に以下同文とか、そういった視聴覚にまつわるかわいらしい都市伝説がありましたが(←正確には、20世紀末にそういう都市伝説ができあがっていて、草創期のインターネットによって広く膾炙したのでしょうが)、そういった類のものはヒッピー的サイケ感覚の成れの果てのようで、2025年現在では寒々しく感じられます。同様に現在の統合失調症も20世紀に代表的とされていた症状とは遠ざかっているようなので、視聴の失調感覚は現在において猛スピードで新種が編成されつつあるのかもしれませんね(それにAIがどう関わるのかも気になりますが。私としては、「AIさえもが20世紀的なものとして代謝され、それよりすっごい失調ぶりが予想もし得ないかたちで来る」というパターンも、現在Z世代と呼ばれている人たちの力なら成しうるだろうと思っています。)
スージーロトロ出てないんですか!少しガッカリしました。若い頃のディランのエピソードで好きなのは、ディランがブルーノートの昼の部にソロで出ていたセロニアス・モンクを聞きに行ったらピアノの上に食べかけのサンドウィッチが乗っていた事(笑)。そこでディランが「近くの店でフォークミュージックを歌っている」と話しかけたらモンクは「わたしたちはみんなフォークミュージックをやっているのさ」と答えた、という話です。映画に出てくる事を1%くらい期待しています。この話ディランの自伝にあるのですが、ディランがホラを吹いている可能性もあるので、要注意ですけど笑
もう本当にしょうもないのですが、アコギな商売をアコースティックギターな商売と読んでしまいました。エレキに傾倒したボブ・ディランを使ったアコギな商売。深い意味はまっっっっったくありません。
>>4
出てきません笑。っていうか、そんな広がり豊かな映画じゃないんですよ。たった5年間の話ですし。
>>6
アコギな商売ありすぎるじゃないですか笑、アコギとハモニカ商売笑。