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ビュロ菊だより 第十六号 グルメエッセイ第六回
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ビュロ菊だより 第十六号 グルメエッセイ第六回

2013-02-05 16:00
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「もしあなたの腹が減ったら、ファミレスの店員を呼ぶ丸くて小さなボタンを押して私を呼んでほしい」
 
 
 
 
 第六回「バレンタインデー特集/ワタシとサロンドショコラ、ワタシと聖ヴァレンタインズ・デイの6年間」
 
 

 

 

*お読みになる前のご注意* <サロン>と<ショコラ>の間に入る前置詞「de」のカタカナ表記の変遷にお気にかけていただくと、ショコラがよりいっそう美味しくなります。
 
 
 


 
 
 ワタシが新宿伊勢丹のサロン・デュ・ショコラを必ず押さえるようになったのは2005年からです。前年の誕生日(6月14日)に歌舞伎町に移ったワタシですが、それまでは自由が丘に住んでおり、ショコラやスイーツ、そしてなによりも新宿伊勢丹の愛好者ではありましたが<パリの、あのサロン・デュ・ショコラが、2003年から新宿の伊勢丹で行われるようになった>というニュースは、知る由もありませんでした。
 
 何せ自由が丘は(今は更にもっと、とんでもないことになっているようですが)そもそもが洋菓子の街で、街の洋菓子を制覇するだけでも大変でしたし(7割ぐらい行きましたが)、ワタシは2002年に不安神経症を患い、2003年にはまだ治療中でしたので、それどころではなかったのです。あらゆることが(音楽以外は)。
 
 2003年いっぱいで治療を終え、2004年の1月に父親が亡くなり、ワタシは歌舞伎町に移りました。治ってしまえば図太いモノで、渋谷~原宿のひと駅すら電車に乗れなかったのに、この年にはブエノスアイレスから成田までの30時間ぐらいのフライトを、一人だけで居眠りしながら平然とこなしたり、要するに神経症で縛り付けられていた行動力を取り戻したワタシは、前から大好きだった伊勢丹にほとんど毎日通うようになり、そして2005年に初めて伊勢丹のサロンドショコラに合流しました。
 
 それはもう、めくるめく。という表現しかあり得ない経験で、「なんだよ!今年で3回目かあ!!」と地団駄を踏みながらも、喜びで失神しそうでした(カカオの大量摂取は、それだけでも失神性が強いですし)。当時からサイト日記を書いていたので、その事は熱狂的な文章になってサイトに踊りました。
 
 ミクシィも、ブログという言葉自体も出来たばかり、他のSNSは何もないという時代で、他の著述家/音楽家の方々と同じく、ワタシの日記はよく読まれ、ちょっとした「ショコラ好き文化人」みたいな扱いをメディアで受けたりして(ピエール・マルコリーニが銀座に出店した際には、伊勢丹のエヴァンと両方取材に行って写真を撮られ、原稿を書いたりしています)、勢い「この人に何か付け届けするんだったらショコラ」という感じになりまして、バレンタインデーになると、自分の部屋がサロン・デュ・ショコラというぐらいに沢山いただくようになりました。
 
 最初は大喜びだったのですが、そのうち、余ってしまって勿体ないというほどの量に至り(ショコラの付け届けがバレンタイン枠を越え、年中無休になったので)、06年に「本当にありがたいので、忍びないのですが、プレゼント全般、特にショコラは、今年をもってお止め下さい。もし、それでもどうしても。という方は、食べきれなかった分は、家の近所の路上で暮らしている方々の、越冬用のお裾分けになることを、予め御快諾いただいてからにして下さい」といったような内容を、日記で呼びかけることにしました。
 
 当時はまだ、前都知事による「歌舞伎町の浄化(オリンピック誘致に際しての)」が実行に移される前夜で、大久保から歌舞伎町のボーダーには大量のホームレスの人々がいました。ワタシのマンションのエントランスはさながらゲットーで、ワタシが出かける際、先ず最初に会って挨拶するのがホームレスの人々でした。
 
 東大/芸大の大学院生たちよりも、どちらかと言うと彼等の方にリアルと親近感を憶えるワタシは(ワタシだって、いつ彼等のようなライフスタイルになるか知れませんし、そうなったらそうなったで全然イケます。東大/芸大の大学院生は、ちょっとムリですね)、彼等と、地域住民同士として、程度ではありますが親交を持つようになり(近所の韓国料理店の店員とか同じマンションに住むホスト君とかも同じく)、貰い物の酒をあげたり(当時は酒が飲めなかったので)、ポケットの中のゴロワーズの余りをあげたりする代わりに近所の情報を貰う。といったコミュニュケーションを交わしていました。
 
 彼等にとって越冬は大問題です。勿論それは、知らない事実ではなかった。しかしワタシは、歌舞伎町に移って来た二度目の冬、2005年の暮れの、雪が降った日に、コンビニの売れ残りのアイスに群がる彼等を、11階のマンションのベランダから見ました。そして正月あけ、地域住民の間で「コンビニの廃棄アイスクリームを食べ過ぎ、低体温症で亡くなるホームレスがいる」と聞いたのです。
 
 哀れむとか助けるというのは僭越以前に無礼な話です。書いたばかりですが、ワタシは子供の頃からホームレスの人々を沢山見ていて(実家に残飯を取りに来る人々がいましたし)、彼等が高等遊民である側面も(人によっては、ワタシよりもずっと高い地位にいたのに家を捨てた人もいましたし)、資本主義社会という過酷な環境の被災者であるという側面も知っていました。
 
 しかしワタシは、食べきれなくなったショコラをスタジオ等に持っていって「これ、ファンの人からの頂き物が余っちゃって」とか言い、仲間たちが一つ二つ摘んでは「ごちそうさまです」とか言い、嬉し恥ずかし、といった面持ちで「良いの良いの」とか何とか言うことを止め、年末まで保管してから、歳暮の時期に彼等に配りました。彼等は大変に喜び、「酒がいっぱい入ってるのにしてくれよ先生」といった冗談まで飛び交いました。
 
 しかしその習慣に2回目はありませんでした。ファンの方々が呼びかけに応えて下さった(熨斗紙に、「一粒だけ菊地さんに召し上がっていただければ、あとはご近所の皆さんにお裾分けしていただいて結構です」と書かれた大きなアソートボックスが、数年間届き続けたのを除けば)。これは自分で呼びかけたことです。そうではなく、ホームレスの人々が、2006年のある日、一夜にして(本当に、一夜にして)この街から消え去ったのです。
 
 以後、ワタシにとってのサロン・デュ・ショコラは、自分で大量に買って、その年の狙い撃ち物件だけを自分で食べ、あとは近所の行きつけの店に付け届けるための催しになり、バレンタインデーには、山ほどいる女性スタッフや関係者から、いわゆる義理チョコを貰って、嬉しそうに目の前で食べてしまう。という日になりました。
 
 ホームレスの人々は、今また、西武線の大ガードの下に、僅か数名ほど居住し始めています。大久保通りは、浄化だのオリンピック誘致だのホームレスだの売春だのどころではなくなりました。10日に1度は起こっていた「反韓デモ」さえ、今ではなくなりました。サロン・デュ・ショコラとバレンタインデーが変わらずやってくる以外、総てが変わってしまったかのような気さえします。オリンピック誘致は御存知のとおり。前都知事についても御存知のとおり。韓流のピークと現在、竹島、震災、民主党の敗走、中国のスモッグ、総ては徒然なるままに。
 
 しかし、年末に売れ残ったアイスクリームを食べ過ぎて死ぬ人がいて、自分がそれをベランダから一人で見ていたという事実、そしてあの「浄化」が断行された日の不条理な怒りと恐怖は、未だにワタシの中でくすぶったまま、完全に消えてはいません。ショコラを買う。カカオを噛み締める。赤道直下の国々では、どんなことが起こっているのか。ああ美味しい。ああ美しい。毎年毎年、美味しさと美しさは増していきます。いろいろな気持ちや思い出が、黒くて苦い、食べられる宝石達によって、ひとつになっていきます。なんでショコラなのだろうか。ケーキではぜんぜん。この気分を味わうことはできないのです。6年前に戻りましょう。
 
 

 
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