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もっとぼくに愚痴を聞かせて。
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もっとぼくに愚痴を聞かせて。

2016-05-05 04:09
     あなたはひとに愚痴をいうことはあるだろうか。ぼくはある。わりにしょっちゅう。

     どうも年を取るほどに愚痴っぽくなってきた気がするので、良くないなあと思っている。

     もちろん時にはひとの愚痴を聞かされることだってある。

     で、ここから本題に入るのだが、ぼくはひとの愚痴とか自慢話とかのろけ話を聞くのが、わりに嫌いではないのだ。

     けっこう何時間でも平常心で耳を傾けていられるほうだと思っている。

     まあ、心から集中して傾聴するというわけにはいかないかもしれないが、少なくともひとの愚痴なんてとても聞いていられないということはない。

     愚痴を聞くと「大変なのだなあ」と思うし、自慢話を聞くと「偉いなあ」と感じる。

     そして、のろけ話を聞くと「リア充爆発しろ!」と――いやまあ、のろけ話を聞くことはめったにないのでよくわからない。

     とにかくぼくが愚痴や自慢話を聞かされて抱く感想はそれくらいで、特に相手に悪感情を抱くことはない。

     自分に話して相手の気分が晴れたならそれはいいことではないかというふうに考える。

     まあ、ぼくも忙しかったらいちいち相手をしていられないかもしれないが、たいてい暇なのでべつに問題はないのだ。

     ところが、世の中にはひとの愚痴なんて聞きたくないという人のほうが多いらしい。

     ふうん、と思う。そういうものなのか。

     もちろん、ぼくだってまったくわからないわけではない。逢えば必ず愚痴しかいわない人がいたらいやにもなるだろう。

     しかし、相手が疲れている時とか落ち込んでいるとき、たまに愚痴を聞くくらいのことはなんでもないし、相手の役に立てるのならそれくらいのことはしたいと思うのである。

     偽善的だろうか。そうは思わない。

     というのも、ぼくはべつにそれを自己犠牲的な「善」と思ってやっているわけではないからだ。

     ぼくは負担にならないし、相手の気分は晴れる。それだったら収支はプラスになっているのだからいいではないか、と考えるだけだ。

     なぜ、ひとは愚痴を聞かされると苛立つのだろう。

     それは、ひとつには自分が相手の負の感情のはけ口にされていると感じるからではないか。

     また、相手の負の感情そのものに付き合うことそのものがいやだということもあるだろう。

     どちらもわからないではない。ただ、ぼく自身はあまりそういうことは思わない。

     ぼくをはけ口にしてその人の感情が快復するならべつにそれでかまわないと思うのである。

     やはりなんだか偽善的なことをいっている気がする。だが、ぼく自身の考えとしてはそうではない。

     ぼくが愚痴を聞かされることに抵抗があるのだから、やはりそれは過剰な自己犠牲精神ということになるかもしれないが、そうでないのだから犠牲という言葉はふさわしくない。

     ぼくとしては他人の仕事の愚痴などを聞いていると、「へえ、世の中は大変なんだなあ」と遠い国の出来事を聞かされた旅人のような気分になる。

     何しろ、ぼく自身はまったく大変ではない仕事をしているので(そもそも仕事といえるかどうかも怪しいところだ)、他人の仕事の苦労話を聞くと心から同情する。

     また、こう書くと怒られるかもしれないが、遠い世界の愚痴はけっこう面白い。

     なるほど、世の中というところは大変なところなのだなあと思い、ぼくは一生ひきこもりで終わろうとあらためて誓ったりする。

     それはお前の聞く愚痴が特別面白いのであって、普通の愚痴は面白くないのだ、という人もいらっしゃるかもしれない。

     そうだろうか。 
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