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山田ズーニー『あなたの話はなぜ「通じない」のか』読了。ひと言、素晴らしかった。
「山田ズーニー」という奇妙な筆名に偏見を抱いていたが(まさか本名じゃないだろう)、読んでみれば実に骨太で説得力に富む一冊だった。
いままでぼくが抱えていて、しかも抱えていることに気づいてすらいなかったいくつもの問題点に対する解答が明快に記されていた。
コミュニケーションというより、「ひとに自分の意見を伝えること」について悩んでいる人すべてに対する適切なアドバイスである。
これほどに実りのある本だとは思っていなかったのでさらさらと一読してしまったが、もういちどていねいに読み直さないと、と感じるくらい。
これほど多くの「発見の感動」があった本は、アドラー心理学について解説した『嫌われる勇気』以来だ。
本書は、初めから終わりまで実に無駄がない本である。どこにも埋め草めいた個所がなく、ぎゅうぎゅうに中身が詰まっている。
そのなかでも印象深いのは、本書がただ「主張の内容が論理的であればいい」とはしていないところだ。
本書によれば、いくらロジカルな主張であっても通じないことがある。
相手に嫌われていたり、そうでなくても不信感を抱かれている場合だ。
人間をひとつのメディアだと考えると、「メディア力」が下がっているのである。
新聞のようなメディアに喩えるとわかりやすい。たとえば同じニュースを伝えるにしても東スポと朝日新聞ではメディアとしての性質が違う。
どちらが優れているという単純な話ではなく、両者は別ものなのだ。
それは人間でも同じことだということ。
このメディアとしての性質、徳望、信頼感などのことを、著者は「メディア力」と呼んでいるわけだ。
この本が優れているのは、その「メディア力」を築く方法について紙幅が割かれていることだ。
この本によれば、メディア力を上げることこそが話を通じさせるためのいちばんの基礎である。
この本では、どうしたら自分という人間への信頼と共感を高めながら、相手にいいたいことを伝えればいいか、そのための技術が記されている。
そういう意味では、この本は「ディベートのように強い自己主張で相手を言い負かす論法とは決定的に違う」と著者はいう。
ただ主張を押し通せばそれでいいというものではないのだ。
主張は通したが、相手には嫌われてしまったでは、本末転倒である。
それでは、自分のメディア力を上げるために、多少のうそを吐くことは赦されるのか。自分のほんとうにいいたいことはいくらかごまかして、相手に合わせるべきなのだろうか。
そうではない、と著者は語っている。
表現は「何をいうか」より「どんな気持ちでいうか」が大切である。
根っこに愛情があれば、「バカ!」といっても温かい。逆に、根っこに軽蔑をためた人から発せられる言葉は「おりこうさん」といってもバカにしている。
その人の根っこのところにある想い、あるいは発言の動機、著者はそれを「根本思想」という。
根本思想は、短い発言でもごまかしようがなくにじみ出て、相手に伝わってしまう。
ふだん環境に関心がない人が、テクニックを駆使して環境保護を訴えても人の心に響かない。
そう、ただ技術だけ磨けばいいというものではないのだ。
逆にいえば、根本思想はそれだけ強いものだから、根本思想と言葉が一致したとき、非常に強く人の心を打つ。
あくまでも「自分の想いにうそを吐かない」ことが大切なのだ。
しかし、あくまでも自分の想いにこだわるなら、相手と衝突することは避けられないのではないだろうか?
そこで、技術である。
この本には、いかにして相手を不快にさせずに自分の想いを正確に伝えるのか、そのための技術と思想と論理がいっぱいに記されている。
著者は、通じ合えずに苦しむ人の志は高い、という。
もし相手を決めつけて切り捨ててしまっているなら、その苦しみもないはずだからだ。
志が高いからこそ、傷つき、また苦しむのだ。
それでは、ぼくたちはそんな苦しいコミュニケーションを通じて何を目指しているのだろう? コミュニケーションのゴールとはどこにあるのだろうか?
ただ阿諛追従を使ってでも相手の賛意を得れればそれでいいのか? そういう人もいるかもしれない。しかし、「志が高い」人間はそうではないはずだ。
著者はいう。「自分の想いで人と通じ合う、それが私のコミュニケーションのゴールだ」と。
単なるきれいごとに聞こえるだろうか。しかし、
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コメント
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炎上させるブロガーには根本思想と言葉のどちらにも問題があるのでしょうね。
海燕(著者)
炎上は本人に責任がなくても起こることもあるので、それだけではなんともいえません。