何か一冊、電子書籍でもいいから本を書きたいと思って、いろいろ参考資料を読みあさっています。

 本のタイトルは『花々と王冠 ポップカルチャーに見る性差越境の冒険』となる予定なのですが、変わるかもしれません。どうも話題がポップカルチャーに留まらない様相を見せそうで、いったいどのように終わるものやらさっぱり見えません。

 前二冊の批評(?)同人誌では、大いに迷い惑いながらもどうにか本としての体裁にまとめあげたわけですが、今度という今度はむずかしいかもしれない、そんな気がします。

 テーマは大まかにいって「現代の物語と性(セックス/ジェンダー)」。目次はこんな感じで考えています。

序章「神話から現代へ」
第一章「『新世紀エヴァンゲリオン』と男の子の挫折」
第二章「『魔法少女まどか☆マギカ』と魔法少女の系譜」
第三章「『獣の奏者』と日本ファンタジーの課題」
第四章「『ハリー・ポッター』と海外ファンタジーの世界」
第五章「『アナと雪の女王』とディズニー映画の魅力」
第六章「『カルバニア物語』と少女漫画の血脈」
第七章「『千と千尋の神隠し』とスタジオジブリの王国」
第八章「『けものフレンズ』と夢みるべき未来」
あとがき

 それで、神話学やら宗教学やら女性学の本を片端から読み耽っているわけです。しかし、ただこれだけではありふれたアニメ/漫画/ノベル批評の域を出ず、そんなに面白いものができそうには思えません。

 現代思想やら何やらを引用しつついかにもそれらしい言葉をさかしらに並べ立てただけの魂を欠いた批評なら、いまの世の中、いくらでも類例が存在する。

 あえてぼくが書くからには、何かしらの強烈な「主張」を孕んだ「作品」をこそ指向したい。そういうふうに思います。あたりまえのえせ文芸批評ならぼくよりうまく書ける人はいくらでも存在するでしょうから。

 しかし、それならどのようなスタイルとメディアを選ぶべきか? ここは大いに迷うところです。たとえば『ソフィーの世界』風の小説形式を採るのはどうか?

 悪くはないと思いますが、いかにも不要に長くなりそう。そもそもぼくは『ソフィーの世界』を読んだことがないので、あまり明確に良し悪しをいえないのですが。うん、まず読んでみようかな、『ソフィーの世界』。

 いっそ商業出版ではまず出せないような分厚い「本」を書いてやろうかとも思うのですが――さて、どんなものだろ。

 ぼくが書きたいのは既存のジャンル主義を超越した、男性向け/女性向けといった分類をも越境した「語り」です。

 ぼくはたとえば「オタク」という言葉での消費者や作品の分類には違和を感じます。ということは、いままであたりまえのように「オタクの夢物語」として認識されていた物語群は別の見方から光をあてられなければならないでしょう。

 つまりは、たとえば宇野常寛さんあたりがあっさりと「レイプファンタジー」と呼んで棄却した物語群にも別の評価が与えられなければならないということになります。

 したがって、いままで当然のごとく男性中心的な物語として男性中心的な言説のなかで消費されて来た、たとえばKeyの『AIR』あたりでもべつの軸からべつの評価を与えなければならないでしょう。

 『AIR』はいままでのぼくの価値観ではまるで理解できない作品で、そのため、ぼくの思考は迷走を繰り返して来たのですが、最近、ようやく理解できるようになってきた気がします。

 つまり、あるひとりの少女の男性論理(今回はあえて「男性原理」という言葉は使わない)に「呪われた」スピリットが、「聖なるもの(ルードルフ・オットーのいうヌミノーゼ?)」に触れ、そこから解放されて上位次元に飛翔するまでの物語なのだ、と。

 以前、ぼくはこの「上位次元への飛翔」を説明するために「ウルトラマクロ」という言葉を使いました。これは「ミクロ/マクロ」という区分を超えた「超越的な世界」を意味する言葉です。

 非常に抽象的な概念なので、自分でもうまく処理できないものを感じていたのですが、神話学や宗教学の本を何冊か読んで、ある程度、把握できるようになった気がします。

 たとえば、井辻朱美はC・S・ルイスの『ナルニア国物語』を引いて、ファンタジー小説の本質についてこのように書いています。

 ファンタジー衝動の究極の焦点はここにあるのではないだろうか。なんらかの聖なる、幸福な、本来の、世界への目覚め。それは目覚めであるからには、いままでの自分は夢を見ていたうその自分、小さい悪夢に悩まされていた自分である。宗教的なひろびろとした境地への解脱と言ってしまうと、みもふたもない。だが個々の宗教の用語や世界観を超えて、この言葉にはそうした世界への帰依と救済への渇望がある。
 物語が「聖なるもの」に触れあうとき、それは書き尽くせないというジレンマを伴う。書き尽くしてしまえば、それは終わって閉じられる掌上の小世界になるからだ。だからC・S・ルイスはこの先を書かなかった。そしてどんなファンタジーも、現実からのこの垂直次元上昇を目指している、少なくとも目指す衝動から出発しているのではないだろうか。それは願望が充足される異国や別世界への水平転移だけではない。「リアル」の密度の変化、ある意味では現実の重さが薄められ、希薄化されて、しかしより充溢した価値観のようなものに満たされる世界への垂直上昇。

 「なんらかの聖なる、幸福な、本来の、世界への目覚め」、「現実からのこの垂直次元上昇」。これこそまさに『AIR』を語るための言葉である、といっても異論は少ないでしょう。

 そして、「願望が充足される異国や別世界への水平転移」とは、あきらかに「小説家になろう」発のウェブ小説に至る言葉であるように思えます。

 『AIR』は男性向けポルノグラフィとして発売されたゲームであり、その物語はたしかに一見すると男性中心的なロジックのなかで感傷的に消費されて終わったように見えるかもしれません。

 宇野さんによる「レイプファンタジー」といった批判もそこから来ているのでしょう(もっとも、宇野さんはご自分の好きなAKB48についてはレイプファンタジーではないと考えておられるようで、ここら辺の首尾一貫しない言説は興味深いものがあります)。

 たしかに、『Kanon』や『AIR』はオタク好みの甘ったるい対幻想のロマンティック・ラブ・ファンタジーと見ることもできるし、『CLANNAD』に至っては、近代家族幻想追認物語、と受け止めることもできるでしょう。

 しかし、それでいてこれらの作品はあまりにもそこから逸脱するところが大きいこともたしかです。

 いったい『Kanon』の「奇跡」、『AIR』での「惑星の記憶」、『CLANNAD』における「幻想世界」とは何だったのか? ほんとうに物語を成立させるためのご都合主義的な装置以上のものではないのか? ここは一考に値するものがあるように思えます。

 この文脈を語るためには『Rewrite』も見ないといけないのだろうな、と思うのですが――うん。頑張る!

 個人的にいうと、いわゆる「エロゲ」発の物語のなかでも、たとえば『SWAN SONG』あたりの作品的完成度はそこらの芥川賞受賞作にまったく負けていないと考えています。

 あるいは、単なるオタク向けポルノグラフィと権威ある文学賞受賞作を同列に並べて評価することを揶揄し嘲笑する向きもあるかもしれませんが、その種の思考は単なる権威主義に過ぎません。

 「偉い人が高く評価している作品は立派なものに決まっているのだ」といった、主体性を放棄した権威追認の思考です。ぼくはその種のジャンル/メディア差別主義を容認しない立場なので、あくまで作品は作品として、他者の作った文脈を無視して見たいと考えています。

 たしかに『AIR』は「男性向けエロゲ」かもしれませんが、その一方でたとえば少女小説として発表されていたかもしれず、そのときはまったくべつの評価を受けていたに違いないのです。

 このように、発表されたジャンル/メディアのコンテクストによって作品の評価が固定されるということは、つまらないことではないでしょうか? それは一方では芥川賞を受賞した『グランド・フィナーレ』といった作品においてもいえることです。

 ぼくはずっとこの「ジャンル/メディア」という文脈に違和と懐疑を抱きつづけて来ているのですが、自分と同じように考えていると感じた人はいまのところペトロニウスさんくらいです。

 だから、初めてペトロニウスさんのブログに到達したときは「ぼくと同じように考えている人がいる!」と感動したものです。いまを去ること10年前くらいの話ですが。

 もちろん、ジャンル主義を懐疑するとはいっても、あるジャンルの歴史に則った「影響の連鎖」はあるでしょうし、それをひとつの文脈として認識することに異議はありません。

 しかし、その一方で、その文脈を越境した影響も大いにあるはずであり、また突然変異的に生まれて来る才能や作品も存在する以上、ジャンルですべてをくくることはできないと思うのです。

 だから、ぼくはさやわかさんの『文学としてのドラゴンクエスト』での、『ドラクエ』を「文学作品」として、村上春樹作品と対比するといった試みは(いささか浅い考察であることは否めないものの)、面白いと感じますし、そこから見えて来るものも大いにあると考えます。

 「オタク文化」と当然のように総称されて来た作品群を「性(ジェンダー)」という視点からそのくくりを外して見たとき、何が見えて来るか。単なる男根崇拝的男性中心主義以上のものはないのか。

 そのことを検証するためには、既存の日本文学の、三島由紀夫や谷崎潤一郎、川端康成、村上春樹、あるいは渡辺淳一といった作家の男性中心的なエロティシズムの系譜を再検証しなければならないでしょう。

 つまりは、たしかに日本文学の一翼をなす文化的、視覚的、ポルノグラフィ的なイマジネーションを読み解くこと。

 三島がジョルジュ・バタイユの禁止と侵犯のエロティシズムをそのまま日本文学化したような『豊饒の海』四部作を最後に自殺したことは、かれのバタイユ的な禁止侵犯のエロスに対する絶望であったと語る論者がいます(樋口ヒロユキ『ソドムの百二十冊 エロティシズムの図書館』)。

 そのことを踏まえると、谷崎潤一郎が初期の「刺青」といった作品で視覚的エロティシズムに拘りながらも、のちに『春琴抄』などの「盲人もの」を書いたことも、つまりは文化的に構成された男性的エロティシズムを解体しようとした試みだったのではないかと思えてきます(たぶん失敗しているわけですが)。

 それでは、非男性中心的なエロティシズムとはどのようなものか――それをあきらかにするためには、たとえばJUNE小説やボーイズ・ラブ漫画を読むことも必要になるでしょう(お奨めがあったら教えてください)。

 『花々と王冠』というタイトルは、「花々(女性論理)」と「王冠(男性論理)」の相克、あるいは超克という意味を孕んでいます。あるいはこの喩え自体、問題含みであるかもしれませんが、まあ、仮題に過ぎないのでご容赦を。いつになるかわかりませんが、何とか書き上げたいものです。

 そういえば、いま、小谷真理さんの『聖母エヴァンゲリオン』を再読しているのですが、昔に読んだときはあまり意味がわからなかった内容が、いまとなっては深く、深く心に染み入って来ることには驚かされます。

 そう――いまにして思えば、小谷さんがいうように、『エヴァ』とは神話の時代から連綿と続いてきた「英雄譚」、つまり「男の子の物語」が侵食され崩壊していくプロセスにほかならなかった。

 いかにも雄々しく、理性的、科学的、男性的にスタートし、「ヤシマ作戦」的な男根的カタルシスを演出した物語が、しだいに「女性的なるもの=おぞましいもの=メス状無意識(ガイネーシス)」に侵され、どうにか「男の戦い」を演じながらも、最終的には崩壊していく、それが『新世紀エヴァンゲリオン』という作品だったのだと思います。

 その「おぞましいもの」とはつまり家父長制的神話が封印してきた女性性であり同性愛性であるわけですが、あの時点で「男の子の物語」は決定的に挫折してしまっているわけです。

 もちろん、LDさんがあの巨大なマインドマップ(オフ会に来た人しか見れなかった「魔法の絨毯」)で説得的に語ったように、その「男の子の物語」の没落の前には、『海のトリトン』や『機動戦士Ζガンダム』といった富野アニメーション(特にロボットアニメ)を初めとする予言的作品群が存在するわけですが……(LDさんの、あの「語り」はやっぱり本としてまとめる必要があるよなあ、と思うきょうこの頃です)。

 そういう意味ではやはり「プレ『エヴァンゲリオン』」と「ポスト『エヴァンゲリオン』」という時代区分は有効なのかもしれませんね。

 いや、たしかに『エヴァ』の後にも無邪気に男性中心的想像力を愉しむ「男の子の物語」はいくらでもあるように思えます。それこそ「なろう小説」の「水平転移」的な異世界転生物語とか。

 しかし、それらは一方である種の「開き直り」にも見えます。「なろう小説」を批評的にどう落着させるかという問題はむずかしいところですね。それらはほんとうにガイネーシスを封じ込め、男性中心的世界観を再生させることに成功しているのでしょうか? 

 「なろう小説はポルノである」といった言説は、たとえばライトノベル作家転じてなろう作家の新木伸さんなどに見られるものですが、そこでいう「ポルノ」とは文化的、歴史的にどのように構築されたものなのか? ぼくが知りたいのはそこです。

 近代文学的な言葉を使うなら、たとえば太宰治の「人間(マン)失格」とは、畢竟、「男性(マン)失格」という意味だったと思えるわけですが、『エヴァ』もまたそのような「男性=人間失格」の物語だったでしょう。

 しかし、世の中には男性だけではなく女性もたくさん生きているわけであり、そこには男性のそれとは異なる「生=性=聖」の構造がある。ぼくはそこら辺に興味があるわけなのですね。

 何をいっているのかさっぱりわからないという人もいるでしょうが、ブログを書き始めてから20年近く、最近、ようやくここら辺のことが整理できそうに感じています。長かったなあ。

 はたしてこの本がほんとうに出るのか、それとも未完のままに終わるのか、いまのところは何ともいえません。でも、頑張るぞ! ふぁいと! おー!

 ちなみに、とりあえず取り扱う範囲を定めるべく、以下のようなリストを作ってみたのですが、どうにもこれでは収まりそうにありません。少なくとも倍くらいにはなりそう。でも、どうにか頑張る。

〇取り上げる作品

『エルリック・サーガ』
『ズートピア』
『アナと雪の女王』
『シンデレラ』
『平たい地球』
『ドラゴンクエスト』
『ファイナルファンタジー』
『ゼルダの伝説』
『AIR』
『Fateシリーズ』
『風の谷のナウシカ』
『風立ちぬ』
『紅の豚』
『ハウルの動く城』
『ONE PIECE』
『ベルセルク』
『BASARA』
『新世紀エヴァンゲリオン』
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』
『機動戦士ガンダムシリーズ』
『ファイブスター物語』
『グイン・サーガ』
『カルバニア物語』
『チキタ☆GUGU』
『デルフィニア戦記』
『かぐや姫の物語』
『銀河英雄伝説』
『アルスラーン戦記』
『マルドゥック・スクランブル』
『スレイヤーズ』
『十二国記』
『西の善き魔女』
『これは魔法のかぎ』
『Landreaall』
『ブギーポップ・シリーズ』
『ソードアート・オンライン』
『無職転生』
『魔法少女まどか☆マギカ』
『少女革命ウテナ』
『ユリ熊嵐』
『美女と野獣』
『ギルガメッシュ叙事詩』
『指輪物語』
『ナルニア国ものがたり』
『コナンシリーズ』
『ジレル・オブ・ジョイリー』
『ハリー・ポッターシリーズ』
『アヴァロンの霧』
『ゲド戦記』
『闇の左手』
『トワイライト』
『女には向かない職業』
『塔の上のラプンツェル』
『メリダとおそろしの森』
『フランケンシュタイン』
『カーミラ』
『守り人シリーズ』
『紫の砂漠』
『宇宙戦艦ヤマト』
『シュピーゲルシリーズ』
『勾玉三部作』
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
『ねじまき鳥クロニクル』
『海辺のカフカ』
『1Q84』
『魔法科高校の劣等生』
『プリンセス・プリンシパル』
『アリーテ姫』
『エフェ&ジーラシリーズ』

〇参考資料

『文学としてのドラゴンクエスト』
『ファンタジーとジェンダー』
『戦う姫、働く少女』
『聖母エヴァンゲリオン』
『世界を創る女神の神話』
『私の居場所はどこにあるの?』
『女神ー性と聖の人類学ー』
『マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』
『戦闘美少女の精神分析』
『母性社会日本の病理』
『大地の神話』
『世界神話入門』
『人類最初の哲学』
『ジェンダーで学ぶ宗教学』
『ドラゴン神話図鑑』
『聖娼 永遠なる女性の姿』
『男たちの知らない女』
『ファンタジーの冒険』
『わが心のフラッシュマン』
『お姫様とジェンダー』
『紅一点論』
『英雄の旅』
『千の顔をもつ英雄』
『ヒロインの旅』
『神話・伝承事典 失われた女神たちの復権』

 皆さんも本が完成することを祈っていてください。でも、たぶん無理かもしれない。うーん。まあ、なるようになるでしょう。たぶん。はい。