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白倉伸一郎『ヒーローと正義』を読み上げました。
著者は平成仮面ライダーシリーズのいくつかを手がけたプロデューサーで、ここでいう「ヒーロー」も仮面ライダーやウルトラマンを指しています。
しかし、この本ではむしろ「ヒーロー」より「正義」のほうに重点が置かれているといって良いでしょう。これは著者による正義論であり、ある意味では「反」正義論でもあります。
著者はこの本のなかで「特撮番組の視聴者である子供たちがウルトラマンや仮面ライダーを正義だと認識するのはなぜか」という問いを立てます。
これは一見、あたりまえのことのように思えるかもしれません。物語のなかでそのように描写されているからだ、と。しかし、よくよく考えてみるとそうではない。
ウルトラマンは人間でも怪獣でもない第三者的存在であり、本来であれば人間に味方するべき理由はないように思われます。また、仮面ライダーとショッカーのいずれに正義があるのかも真剣に考えてみれば微妙な問題でしょう。
ですが、それにもかかわらず、子供たちはウルトラマンや仮面ライダーに正義があると信じてしまう。これはなぜなのか。つまり、かれらは物語を通してロジカルに主人公たちの正義を確認しているのではなく、ただ直感的に主人公の側を正義だと認識しているということになるのです。
著者はここで色々と言葉を尽くしているのですが、ぼくなりにまとめてしまうと「それは視点の効果だ」ということになります。
子供たちは――いや、ぼくたち大人も含めた人間は一般に、物語に触れるとき、視点人物に自分を重ね、その人物の行動を正当化するバイアスをかけながら見るものなのです。それが物語の力であり、危険さです。
著者は書きます。
「おれが正義だ」「おれたちが正しい」――世界中のだれもがそう言う。「おれ」「おれ以外」、「おれたち」「おれたち以外」の二項が、正義・不正義という、べつの二項に重ね合わされる。
そうなのです。まさにこの二項対立の構図こそが「物語(ナラティヴ)」のもつ構造的な問題点だといえるでしょう。ペトロニウスさんがいうところの善悪二元論の問題ですね。
人が物語を語るとき、それはまず二元論の形を取ります。なぜなら、物語とは「わたし」の視点からロゴス(言語)によって世界を秩序立てることであり、「わたし」を認識した瞬間に「わたし以外」という区分が生まれるからです。
世界の神話の多くにおいて、世界の始まりは混沌であった、といわれています(この本では「渾沌」という表記が採られていますが)。ギリシャ神話ならカオスですね。その混沌を神が秩序立てることによって世界が誕生するわけです。
たとえば、キリスト教神話においては神は七日間かけて光と闇を分け、海と陸を分け、女と男を分け、世界を体系化しました。混沌(カオス)のなかに秩序(コスモス)を生み出したわけですね。混沌とした世界をロゴスによって体系的に分類した、ということもできるでしょう。
しかし、この分類は人間による差別の始まりでもあります。「わたしたち(善=仲間=中心=文明)」という認識は、即座に「あいつら(悪=敵=周縁=野蛮)」という認識を生みます。その行き着くところは戦争です。
もし人間が一切の物語をもたず、分類に興味を示さなければ、世界はただ世界としてのみ存在し、差別も争いもなかったかもしれません。それが物語がもつ危険さであり、問題点です。
現代思想ではキリスト教やマルクス主義のような世界を巻き込むほどの物語はしばしば「大きな物語(メタナラティヴ)」と呼ばれますが、そのような物語の危険性は、いまとなってはだれもが即座に理解するところでしょう。
人間を、というか生きとし生けるすべての存在を無造作に「わたしたち」と「あいつら」を分け、「わたしたち」のみを正当化しつづけること、それが物語であり、また正義であり、その焦点となるのがヒーローなのです。
白倉さんはこの観点から正義とヒーローの物語を受け取る問題点を述べていきます。
わたしたちの心は、単純きわまるしろものである。怪人を両義的でらうがゆえに〈悪〉とみなす心性。ヒーローものという物語を、「正義と悪」の対立構造としてだけ受け取ろうとする心性。そうしたわたしたちの心性はすべて、ナチスにいいようにあやつられて、極端な迫害行為に走ってしまった、悲しいドイツ民衆となんら変わらない。
一読、なるほど、と思います。ぼくも昔、かんでさんと対話するなかで似たようなことを書きました(http://d.hatena.ne.jp/kaien/20110727/p2)。話はかんでさんの『3月のライオン』批判から始まります。
それと、もう一つ、誤解を恐れずに言うけど、この描写だと、いじめをした側がかわいそうだ。担任に理解されていないのは、いじめをした側も同様なのに、それを誰にも指摘してもらえていない。しかも、居心地の悪さを、どうにも出来ない立場に追い込まれつつある。現実では、彼女たちも平等に扱われるべきである、と思っている。ただ、彼女たちの権利は「3月のライオン」という物語では現実よりも狭められたものとなる。それは圧倒的に正しいことではあるが、事実である。その辺に私は物語の限界を感じてしまう。
これに対し、ぼくはこのように異論を呈しました。
たしかに『3月のライオン』は現実を「狭めて」描いているけれど、そもそも物語とはすべて現実を「狭めて」描くものだということがいえるわけです。そこに物語の限界を見ることは正しい。正しいけれど、それが物語の力の源泉でもある。なぜなら、ある人物をほかの人物から切り離し、フォーカスし、その人物の人生があたかも特別に重要なものであるかのように錯覚させることがすなわち物語の力だからです。だから作家が物語を語るとき、どこまで語るかという問題は常に付きまとう。あえていうなら、ひなたの担任の先生にだって、ああいう人格になるにいたったプロセスがあるに違いないんですよね。実は親から虐待されていたとか。でも、それは描かれない。作家はすべてを描くことはできないわけで、必ず恣意的選択をすることになる。それが物語の限界であり、力。あとはその点に対する想像力が確保されているかどうか、という問題かと思う。
かんでさんはこの言葉(と、一夜にわたる対話)を経て、さらにこのように書きます(読みやすいよう引用の際にインデントを入れてあります)。
凡人の私には、ひなの至っている境地、辛くて泣きながらでも自分の立ち位置を決して曲げない、という強い心は、それ以前にどうしようもない理不尽な状況によるなどして、己の価値観を曲げたうえで失敗した(と感じた)経験に裏打ちされる種類の境地ではないか、と感じるのです。ひなたは天才でしょうか?それとも英雄でしょうか?そういう描写はありません。しかし、ひなたが決して己を曲げない理由は描かれません。そして、彼女はその、己の正義を貫き通すことによって、立場の対立する「いじめっこ」や「担任教師」の正義を踏みにじってもいるわけです。しかも、その自覚は描かれません。その自覚は物語上必要ではないものだ、という指摘はあるでしょう。この漫画の主人公は桐山くんであり、ひなたの内面を中心に描く必要はない、と。しかし、ならば、何故、ここまでひなたのいじめ問題を大きく取り上げたのか、という意図が理解できないのですよね。桐山くんの価値観も基本的にゆらぎません。TOKAさんも触れている5巻での、ひなたを恩人だと定義するところで、桐山くんの成長の要因、という意義も既に大部分果たされているのではないでしょうか。その上で、6巻の大部分を割いても決着しないほどのページを割いて、このいじめエピソードを扱うのであれば、ひなたの内面が軽視されるデメリットはメリットに対して遥かに大きいのじゃないでしょうか。そこを描くことはエンターテインメントの物語としての質を下げるから忌避したのだと、あくまで主張するのであれば、それは認めざるを得ません。しかし、同時に私は、それを描けないのであれば、物語なんてくそくらえだ、と思う。そんな物語の質に、どれだけ尊い価値があるのか、と。「ひと」と「ひとでなし」とを峻別し、自分は「ひと」であることを声高々に叫ぶことは正しい。しかし、「ひとでなし」は、ただ溜息をつくしかない。
そして、この意見を受けて、ぼくはある種の最終結論として、以下のようなことを書きました。
つまり、ぼくはかんでさんが指摘する『3月のライオン』の問題点は、ひとつ『3月のライオン』だけの問題点ではなく、「物語」というものすべてに共通する問題点だといいたかったわけです。で、ここから三者会談(笑)に入るわけですが、話しあってみると、ぼくとLDさんはともに「物語」を好きで、擁護したいという立場に立っていることがわかりました。しかし、LDさんは同時に「物語」には「残酷さ」が伴うともいう。ぼくなりにLDさんの言葉を翻訳すると、それはある「視点」で世界を切り取る残酷さなのだと思います。つまり、「物語」とはある現実をただそのままに描くものではない。そうではなく、ひとつの「視点」を設定し、その「視点」から見える景色だけを描くものである、ということ。『3月のライオン』でいえば、主に主人公である桐山くんやひなたちゃんの「視点」から物語は描かれるわけです。そうしてぼくたちは、「視点人物」である桐山くんたちに「共感」してゆく。この「視点人物」への「共感」、そこからひきおこされる感動こそが、「物語」の力だといえます。しかし、そこには当然、その「視点」からは見えない景色というものが存在するはずです。たとえば、『3月のライオン』のばあいでは、ひなちゃんの正義がクローズアップされる一方で、ひなちゃんをいじめた側の正義、また彼女の話を頭からきこうとしない教師の正義は描写されない。これはようするにひとりひとりにそれぞれの正義が存在するという現実を歪め、あるひとつの正義(それは作者自身の正義なのかもしれない)をクローズアップしてそれが唯一の正義であるかのように錯覚させる、ある種のアジテーションであるに過ぎないのではないか。これがかんでさんの批判の本質だと思います。LDさんはその批判を受け止めたうえで、その「物語のもつ限界」を「物語の残酷さ」と表現しているわけです。つまり、「物語」とはどこまで行っても「歪んだレンズ」なのであって、世界の真実をそのままに描くものではない、ということはいえるでしょう。
長い引用になってしまいましたが、ぼくも一応、「物語」が「歪んだレンズ」であり、差別を生み出すものであるということは理解していたわけです。
かんでさんが「ひと」と「ひとでなし」を峻別することの問題を指摘していますが、それはまさに「わたしたち」と「あいつら」を分ける二元論的思考の根本的な危険性だといえるでしょう。
物語はしばしば視点人物のまわりの「わたしたち」のみを「ひと」とみなし、それに敵対する「あいつら」を「ひとでなし」として描きます。しかし、それは差別です。
「ひと」という名の物語に根差す差別。二元論によって世界を分けることとはどうしようもなくこういう差別を生み出してしまうわけなのです。
そして、ここに付言しておくなら、主人公たちの心理が繊細に描写される一方で、敵対者の視点の描写が不足しているようにも見えることは、『3月のライオン』の物語としての欠点ではありません。
『3月のライオン』はむしろ優れた物語作品であるからこそ、物語がもつ問題点をあらわに露出させることになったのだと思います。
ぼくはこれと似たようなことを有川浩さんの作品にもよく感じます。有川さんの代表作のひとつ、『阪急電車』について書いたことを、またも長くなりますが、引用しましょう(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar502713)
ぼくは有川さんの作品が好きでずっと読んでいるんだけれど、どうしてももうひとつハマり切れないところがある。その容赦ない「裁きの目」に、共感し切れないのだ。たとえば、この小説のヒロインのひとりは、その電車にウェディングドレスを思わせる白いドレスで乗り込んできた女性である。彼女は実は自分を裏切って自分の「友人」と結婚することにした元恋人の結婚式から帰ってきたばかりなのだ。あえて結婚式の常識的なドレスコードを破り、花嫁よりも美しい純白のドレスを来て式に出席することが、彼女の「討ち入り」なのだった。彼女は自分を捨てた男への怒りと憎しみと、そして軽蔑を込めてそういう「復讐」をやり遂げ、そしてむなしさとともに電車に乗って来たわけなのである。この女性の描写に違和感を抱く読者は少ないかもしれない。ぼくにしても実によく描けてはいると思う。でも、なあ。この発想はどこかねじ曲がっているとも考えるのである。何といっても、取ったの取られたの、裏切ったの裏切られたのとは云っても、本来、あくまで自由恋愛のなかでの出来事のはずだ。いま付き合っているからといって、だれも相手に絶対の所有権など主張できないわけである。自分を「捨て」て「裏切った」相手や、その男を「寝とった」友人をまるで倫理的な「悪」のように見ることはおかしくないだろうか?もちろん、理性ではそうとわかっていても、どうしても怨んでしまうということならわかる。ぼくが好きな村山由佳の『すべての雲は銀の…』には、最愛の恋人を、よりによって実の兄に寝とられてしまった青年が出て来る。かれは理屈では恋愛ごとにあたりまえの倫理は持ち込めないとわかっていても、どうしても割り切ることができない。その「瑕」を延々とひきずりつづけ、兄や元恋人を怨みつづけることになる。これならわかる。この心理は理解できるのだ。しかし、この女性はそうではない。彼女は、少なくとも自分の心理のなかではどこまでも「被害者」であり「犠牲者」である。元恋人の結婚式に白いドレスを来てゆくという自分の行動に対し後ろめたさがなくはないにしても、それはただやりかえしただけだと正当化されているように見える。少なくともこの物語のなかでは恋人を寝とった女はどこまでも悪役で、こずるく卑怯な女である。それはじっさいそうなのかもしれない。たしかにその女はひどい奴なのかもしれない。しかし、ここには、それでは、そもそも、そういう人間を選んで友達付き合いをしてきた自分はどうなんだ?という問題提起はない。自分だってその「友人」を、ほんとうの友達とは思っていなかったくせに、そして内心で「ウザい奴」として見下していたくせに、会社内での立場を考えて打算の付き合いを続けてきた身なのだ。ある意味では、この展開はそういう不誠実な人間関係の当然の結末とすら云えるかもしれないではないか。違うかな?もしかしたら彼女は、だれに対してもそうやって表面的な付き合いを続けてきたのかもしれない。だからこそ、恋人も彼女を「裏切る」ことになったのではないか?暴力や暴言でも振るわれたというならともかく、普通は恋愛ごとにおいて片方が一方的に悪いなどということはないと思うのだが……。しかし、彼女の描写を追っていっても、そういう考えは一切、出て来ない。つまり、ここでは「被害者」はどこまで行っても「被害者」で、「加害者」、あるいは「イヤな奴」は、ほんとうにただの「イヤな奴」のままで終わってしまうのだ。視点を変えてみればまたべつの真実が見えてくるかもしれない、という希望は提示されない。「あるいは自分の側にも責任があったのではないだろうか?」という反省も湧いてこない。どこまでも一方通行の「怒り」があるだけだ。この一作にかぎらず、ぼくが読んだ有川浩の作品は、ほとんどが「正義の怒り」とも云うべき、暴力やハラスメントへの怒りが主題に据えられていた。それが悪いとは思わない。だが、その視野は、やはり広くはないと思う。有川浩の小説においては、視点は物語の主役になった人物にフォーカスして、揺らがない。そこでは、「主人公のまわりの迷惑だったり非常識だったりする人物への怒り」はあからさまなのだが、あるいはその視点人物も見方を変えれば何か事情を抱えているかもしれないという方向には物語が進まない。『ガッチャマンクラウズ』のはじめちゃんがそこにいたら何と云うだろう、と思ってしまう。もちろん、だれかから「正義の怒り」をぶつけられた人間が、反省したりして心を入れ替えるという描写は時々出て来る(本作のなかにもある)。ただ、その場合も「正義の怒り」の正当性に疑いはさし挟まれない。どこまで行っても正義は正義なのである……。ここらへんがどうも有川作品を読んでいてひっかかるところなんだよなあ。実は宮部みゆきを読んでいても同じようなところでひっかかる。しかし、有川浩の「怒り」は宮部のそれよりはるかに苛烈で、だから、ずっと印象が強い。宮部作品においてはほのかな違和感で済むものが、有川作品においてはどうしても見過ごせない辛さになってしまうのだ。もちろん、どこまでも登場人物に共感して、その「正義の怒り」に同調できれば気分が良いのだろうけれど……。そこにあるものは「ひとを裁く視点」である。ぼくは思う。このひとはいつもこういう「裁きの目」でひとを眺めているひとなのだろうか、と。そこには、どうにも「赦しの視点」が欠けているように思う。ただ、これこそが「物語」の面白さであることもたしかなのだ。だからこそ、有川作品は人気がでる。ベストセラーになる。じっさい、ぼくも面白いと思うからこそ読んでいるわけだ。複雑な世界をひとつの視点にフォーカスして単純に描く「物語」の魅力と、そして残酷さを象徴するような作家であり、作品だと思う。
『阪急電車』を読んでいて、主人公の女性の行動に違和感を抱く人はそう多くはないかもしれません。じっさい、この作品はミリオンセラーになっているわけで、それだけの人の共感を集めることができた優れた小説だといえます。
しかし、いったん物語の視点を外してよくよく考えてみると、主人公の心情や行動は倫理的ないし審美的に正しいものであるとはいいきれないことに気づきます。それこそ、ウルトラマンや仮面ライダーが倫理的に完全に正しい行動を取っているとはいえないように。
『阪急電車』はとても優れた物語です。だから、読んでいる間は視点人物である主人公の感情にのっかっていっしょに怒り、嘆くことができる。
ですが、それは見方を変えるなら物語のマジックでそう見せられているだけであって、ほんとうに世界がこの女性の見ている通りのものなのか、どうか、その点は判断できないともいえるのです。
これは白倉さんが指摘している通りの物語が抱える問題点でしょう。それは主観視点にもとづく世界の秩序化という物語がもつ「力」の負の面であり、この危険な力のために人類は幾度となく差別や迫害や戦争を巻き起こしてきたのです。
つまり、二元論の物語とはそういうどこまでも危険な方法論だということです。それなら、どうすればいいか? ひとつには、二元論という単純すぎる構図を、三元論なり四元論なり五元論――つまり多元論に置き換えていくという行為が考えられるでしょう。
しかし、そういうふうに複雑化していくと、世界はその分だけ見通しが悪くなり、秩序(コスモス)は再び混沌(カオス)へと近づきます。「世界の秩序化」という物語の力は、その分だけ弱くなると考えて良いでしょう。
そういう物語は、あるいは世界の複雑さをそのままに捉えたものとして批評家には高く評価されるかもしれませんが、大衆的な人気を獲得するのはむずかしいと思います。
それでも「混沌(渾沌)を混沌のままにしておく」ことが正しいのだ、と主張する人もいるかもしれません。そちらのほうが単純な二元論より高度な物語なのだと。じっさい、白倉さんは書いています。
とするなら、わたしたちがすべきことは決まっている。「世界は自分を中心に回っているのではない」ことに、気づかなければならない。天動説から地動説へのコペルニクス的転回を、わたしたち一人ひとりが、自分の中でなしとげなければならない。渾沌そのものである世界や他者を、「わたし」という一元的原理によって秩序づけようとするのではなく、渾沌のまま受け入れ、理解し・許容し・評価する回路を、みずからの中につくりださなければならない。
これは、一般論として、まずは正しい意見だといえるでしょう。他人に偏見をもってはいけない。複雑な存在である他者や世界にレッテルを貼って理解したつもりになるのではなく、そのとほうもない複雑さをそのままに受け入れるべきだ、と。
しかし――ぼくはあえていいたいのですが、人間にそのようなことが可能でしょうか。もちろん、「ある程度までは」できるでしょう。ただ、その一方でやはり人は物語と、物語による秩序化なしには世界を理解できないのではないかとも思うのです。
もちろん、21世紀のいまとなっては、いかにも単純に過ぎる二元論的な物語は勢いを失い、日本の少年漫画やハリウッド映画ですら複雑な群像劇を描くようにはなっています。
ぼくやペトロニウスさんが「現代は神話的物語が受け入れられなくなった時代だ」と語るのはそういう文脈です。とはいえ、物語による世界の分類という方法論は人間の世界認識の根幹に関わるものであり、まったく失われてしまうはずはありません。
人の脳は混沌を渾沌のまま認識することはできない。人はそのあまりにも膨大な情報量を処理するために秩序を求め、物語を作るのです。もちろん、そこで切り捨てられる情報もあるでしょう。「正義」の物語において「悪」として差別を受ける者もいるでしょう。
けれど、それでもなお、物語は魅力的であり、物語なしに世界を眺めることはできない。一切の物語を失ったとき、おそらく人は何も行動を取れないと思います。それだけ、物語は人の思考の根幹に関わっているのです。
白倉さんは「わたしたちが見たいのは、秩序ではなく渾沌なのである」とそれこそ単純に書いてしまっていますが、これはいいすぎであるように思えます。
より正確には「わたしたちが見たいのは、完全な秩序でも完全な混沌でもなく、秩序が混沌を整理する過程であり、また混沌が秩序をかき乱す様子である」ということになるのではないでしょうか。
だからこそ、名探偵が混沌とした状況を快刀乱麻の推理で秩序立てることにカタルシスを感じる一方、不条理そのものといった筋立てのホラー小説や映画に強く惹かれる。
ぼくたちは、完全なコスモスにも完全なカオスにも耐えることができない。したがって、最上の物語は、その間のどこかに均衡点を見いだす。そしてたとえそれが差別や迫害や戦争につながるとしても、物語は限りなく魅力的で美しい。ぼくは、そういうふうに考える。
そういうわけで、正義論として、ヒーロー論として、なかなか面白い本でしたが、結論は一面的に過ぎると考えます。ここら辺のことを踏まえていると、ぼくやペトロニウスさんやLDさんが何をいっているのかわかりやすくなるでしょう。
でわでわ。また逢う日まで。
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ブログ記事、面白かったです。<わたしたちが見たいのは秩序ではなく渾沌>というのは、まだ一昔前であれば頷けるところもあったと思うんですが、とりわけ今となっては古さを感じました。(2004年の本ということなので、ある程度やむを得ないとしても)
そもそも「世界は混沌である」というのも一つの秩序化であり、他の秩序と同等の地平で評価されるべきものだと思うのですが、たとえば先日のLDさんのマインドマップを見れば、わたしたちが見たいのはただの「渾沌」ではなく、むしろその先ではないかと思えます。
ただ、たとえば現在でも、Twitterの「左」と「右」のやりとりなどを見ていると、「もう少し今自分が立っている秩序から離れて見てみようよ」といいたくなる気持ちもわからないでもないですが……。
色々とタイムリーな話で、とても良かったです