はいほー。あいかわらずいずこへ出すあてもない原稿を書いています。とりあえず3万文字は超えました。全体で12万~13万文字程度を予定しているので、だいたい4分の1くらいは書き上がったことになるでしょうか。

 本にする原稿を書くときいちばん大変なのは全体の構想がはっきり見えない助走段階なので、そこはすでに乗り越えた感じですね。

 ちなみにタイトルは『機械じかけの性と生 アニメ/マンガ/ノベルのなかのセンス・オブ・ジェンダー』となる予定です。テーマは「性」と「生」。アニメ/マンガ/ノベルのなかのジェンダーとセックスについて語り倒した本になるでしょう。

 あまり過剰に長くはしたくないのですが、それにしても書きたいことが多すぎてうまくまとまるかどうか。何しろ何十という作品を並行して取り上げていますからね。

 ほんとうならひとつひとつを可能な限りくわしく取り上げたいところなのだけれど、そんなことをしていたらまとまるものもまとまらないのであきらめようと思います。しかたない、しかたない。

 このタイトルは、ぼくたち現代人はしばしば無痛文明的な都市生活のなかで自分の意志を失い、外からの圧力に流されるまま「機械じかけ(オートマティック)の生」を生きている、ということを意味しています。

 「男らしさ」とか「女らしさ」といったジェンダーもまた自然な「その人らしさ」を封じ込める圧力に他なりません。それでは、いかにして都市文明のなかでジェンダーによって封殺された「原初のエロス」をよみがえらせ、その「機械じかけの生」から脱却すればいいのか、そこが本書の読みどころとなっています。まあ、これから書くわけですが……。

 はたしてほんとうにまとまるかどうか、乞うご期待。たぶん来月中くらいには書き終わっているはず。

 この本は、ぼくが普段ずーっと考えていることをどうにか言葉にまとめたものになると思います。あるいはそれは、ほんとうなら既存の作品を通して語る必要はない性質の話なのかもしれず、そういう意味では「批評」の本とはいえないかもしれません。

 むしろ「自己啓発」とか「スピリチュアリズム」とかに近いとすらいえるでしょう。もっとも、疑似科学やオカルトに落ち込むような性質の本ではありません。

 そういうありきたりのルートを排除した上で、なるべく真剣に「生きること」について考える、そんな本にしたいと思っているのです。

 そうですね、ほんとうなら小説にして伝えるべきテーマであるのかもしれません。ですが、ぼくは何しろストーリーテラーとしてまるで才能がないのでこういう形で伝えたいと思います。

 ええ、どういうメディアでどういうスタイルを選べばどのくらい伝わるのかということはいつも思い悩むところです。何しろ、自分が考えていることを正確に人に伝えるのはとてもむずかしい。

 じっさい、ネットを見るていると、この人はこんなにはっきりとわかりやすく書いているのにまるで伝わっていない!というような記事をよく見かけます。

 もちろん、100人が読んで全員が同じ感想を抱くという内容は無理でしょう。しかし、できることなら可能な限り正しく伝えたいと思うんですね。なので、中学生でもわかるように簡易に書くつもり。

 この本の骨子を為しているのは、いま、不幸せな人、自己嫌悪に陥っている人、あるいは歩き出す動機がなくて動けずにいる人は、本来なら無限のエネルギーを生み出すはずの「生命そのもの」がすすけて曇っているからそうなるのではないか、という発想です。

 この「生命がくもったままの状態」で生きることを、ぼくは「機械じかけの生」と呼ぶわけです。

 では、その生命を汚す「すす」とは何でしょうか。ぼくは、それは「思い込み」であり「固定観念」だと思っています。ペトロニウスさんなら「ナルシシズム」と呼ぶかもしれません。

 この本では、自分はこういう人間だとか、こんなふうに生きていかなければならないといった思い込みを排して、「生命そのもの」のエロスが促すままに生きていくことを奨めています。

 ただ自分の望むことをやりたいようにやっていく原初的(プリミティヴ)なライフスタイル。ひとりひとりがそうやって「ありのまま」に生きていけば、その結果、社会にはいまよりはるかに多彩な多様性(ダイバーシティ)が生まれることになるでしょう。ぼくは、それが「ジェンダーフリーな社会」だと思っています。

 もっとも、そうなったところで、社会から痛みや苦しみや哀しみが消えてなくなることはありません。むしろ、人はいま以上にごまかしが利かない状態でそういったネガティヴな感情に直面しなければならなくなるかもしれません。

 なぜなら、そういった苦痛もまた、「生命そのもの」に属しているからです。正しく生きることの歓びを求めるなら、どうしてもその苦しみをも受け入れなければならない。ぼくはそう考えます。

 ただ、それは自分の「思い込みの世界」でひとり悶え苦しむのとは違った形になるでしょう。ぼくが考えているのは、人生について悩み、たとえば新興宗教や疑似科学やオカルトやスピリチュアリズムに救いを求めるような人が、べつの形で希望を見つける方法はないかということです。

 本来、それは「文学」や「哲学」の領域に求めるべきことなのかもしれませんが、いま、そういったジャンルに救済を求めることはむずかしくなっているように思えます。

 だから、たとえばオウム真理教に入信して道を誤ってしまった人たちが、それ以外の道で生きていけるようになるにはどうすれば良かったのか。そういう問いのアンサーになるような本を書ければいいな、と思うわけです。

 まあ、ある種の人は十分な「萌え」さえあればそれで十分に生きていけるのかもしれませんが、物語の魅力はただそれだけではありません。

 そういうわけで、ぼくなりに「生きること」について考えた本なのです。どうにかして世に出したいので、完成のあかつきには、いっそどこかの出版社に持ち込みをすることも考えていますが、無理かなあ。まあいいや。さらにさらにがんばります。でわ。はいほー。