トンデモ本の世界

 何気なく本棚をあさっていたら、1995年発行の『トンデモ本の世界』を見つけた。「トンデモ」を研究すると学会にとって最初の本であり、この本がベストセラーとなったおかげでその後のと学会があるともいえる重要な一冊だ。そのあとがきで、と学会会長の山本弘は書いている。

 では、氾濫するトンデモ本に対して、我々はどのように対処すべきなのか?
 答えはひとつ――笑い飛ばすのである。
 簡単なようだが、これがなかなかむずかしい。すでに見てきたように、科学的間違いを笑うためには、科学知識が必要だ。非常識な考えを笑うためには、常識が必要だ。無知で非常識な人間は、トンデモ本を読んでも笑うことはできない。
 すなわち、笑いとは狂気の対極にあるものなのである。笑っていられるうちは正常だが、笑えなくなったら危ない。

 この文章を読んでから17年経つわけだが、いまになってつくづく思う。「笑っていられるうちは正常」という価値観は幻想に過ぎなかったな、と。その後のと学会で起こったトラブルを見ていると、とてもではないが「笑っていられるうちは正常」などと信じられない。ひとはだれかを笑いながら狂っていくことができるのだ。

 「笑いと狂気は対極にある」というが、実はそうでもない。ひとは相手を非常識だと思い込みさえすれば笑えるのであり、ひとを笑うのに必ずしも常識は必要ない。笑っている側が笑われている側より非常識なことなどいくらでもある。

 たとえば聖書の言葉を信じているひとが進化論を「サルからヒトに進化するんだってよ。あいつの祖先はサルか(笑)」と笑っているとする。この場合、おかしいのは笑っている側だろうか、笑われている側だろうか。答えはいうまでもないように思える。

 ひとの発言に対してメタレベルに立ち(立ったつもりになり)、嘲り、笑っていれば健全でいられるという考え方は根拠がないものなのだ。「笑っていられるうちは正常」と信じることこそが、狂気の発端である。

 『一億総ツッコミ時代』という本がある。ぼくはまだ読んでいないのだが、Amazonの紹介文を参考にするかぎり、このような内容であるらしい。

ああ息苦しい一億総ツッコミ時代
ツイッターで気に入らない発言を罵倒し、ニコ生でつまんないネタにコメントし、嫌いな芸能人のブログを炎上させる。ネットで、会話で、飲み会で、目立つ言動にはツッコミの総攻撃。自分では何もしないけれど、他人や世の中の出来事には上から目線で批評、批難――。一般人がプチ評論家、プチマスコミと化した現代。それが「一億総ツッコミ時代」だ。動くに動けない閉塞感の正体はこうした「ツッコミ過多」にある。「ツッコミ」ではなく「ボケ」に転身せよ。「メタ」的に物事を見るのではなく「ベタ」に生きろ。この息苦しい空気を打破し、面白い人生にするために!

 と学会はまさにこの「ツッコミの時代」の申し子といえるだろう。決して相手と同じ土俵に立ってまっとうに議論を交わすことなく、「バードウォッチャー」を気取ってひとの言動を笑い飛ばす。

 しかも、それが本当におかしいものであるのか、「トンデモ」なのかはどうかはと学会会員の一存によって決まる。「こういうものがトンデモ」という具体的な基準は存在しない。トンデモとは実は政治的な概念なのである。

 たしかにトンデモないひとやものを笑い飛ばすことはおもしろい。爽快な気分になる。しかし、笑えるからといって健全だということにはならない以上、いつも自分が狂っていないかチェックしていく必要があるはずである。と学会はそれを怠ったためにいかにも尋常ならざる集団へと変質していったようにしか思われない。

 トンデモを笑うことは「彼も人なり我も人なり」という前提があって初めて健全たりえるだろう。自分だって一歩間違えれば同じようなミスをしかねない、と思っていて初めてひとの行動言動を笑うことができる。

 そうでなければ、その笑いはどこまでも陰湿なものにならざるをえない。「トンデモ」を自分とは対極にある永遠に交わらない存在として定義する時、自然、ひとは傲慢になり、「正常」な自分が「異常」なものを笑い飛ばすという形式を無条件に信じこむことになる。

 それは頽廃と狂気への第一歩だ。つまりは自分自身を笑い飛ばすことができる者だけが、ひとを笑う資格を持っているのである。これはネットの意見でも同じ。あなたは知らず知らずと学会の幻想を共有してはいないだろうか。気をつけるがいい。ひとを笑っているうちに、自分自身の狂気が見えなくなっているのはと学会だけとは限らないのだから。