オットーは『聖なるもの』(1917年、邦訳 岩波文庫)の中で、真・善・美の理想を求めるカント的理性宗教に対して、非合理的かつ直接的な経験こそが「聖なるもの」であると述べた。これを、ラテン語で「神威」を意味する"numen"から取った"das Numinöse"という造語で規定した。神への信仰心、超自然現象、聖なるもの、宗教上神聖なものおよび、先験的なものに触れることで沸き起こる感情のことを指す。
弱いなら弱いままで。
「聖なるものと物語」というテーマで本を書きたくて、いろいろと資料を読んでいる。ここでいう「聖なるもの」とはルードルフ・オットーが創案した宗教学の概念で、Wikipediaによるとこんな意味らしい。
ぼくはいまその『聖なるもの』を読んでいる最中だが、なかなかに難解で捉えがたい。しかし、まあ、ともかく、ぼくが「ウルトラマクロ」と呼んでいる領域の概念であることは間違いない。何か超越的なもの。形
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コメント
コメントを書く人の社会の根幹はやはり「万人の万人による闘争」なのでしょう。
それでもでデメリットはあっても人は他人と協力するほうが得ということで集団を作った。
法律やルールはそこを秩序立てるもので、人の世の根幹ではありません。
どのように生きたら良いのかを他人や世に問うても望む答えは返ってこないでしょう。
人の事情をそこまで考える他人はいないと思ったほうが良い。
自分はどのように生きたいのか、それを集団(社会)の中でどう折り合いをつけるかそれを考えた
ほうが良いと私は思います。