どもです。本日、41歳になりました。ハッピーバースデー>オレ。てれびんからサーティワンアイスクリームのチケットをもらったので買ってこようと思います。
野郎からしかバースデープレゼントをもらえないわが身の哀しみよ。奴の悪意が身に染みるぜ。でも、サーティワンのアイスクリームはおいしいけれど。
まあ、それはどうでもいいので、ネットで見つけた興味深い記事の話をしましょう。批評家の宇野さんの記事と、アニメ監督の「ヤマカン」こと山本寛さんの記事です。
まず、宇野さんは山本さんが新海誠監督の京アニスタッフの無事を祈るツイートに対し、「ちょっと黙ってて」と呟いて強い非難を受けたことに対し、こう述べています。
山本監督は絶望していたのだと思う。起きてしまったあまりにも凄惨な現実に、そして、その現実を受け止めきれない人々が、かつての同僚を、先輩を、後輩を殺された相手にゲーム感覚で石を投げてくるもうひとつの現実に。彼は改めて直面してしまったのだと思う。京都アニメーションを襲った犯人の悪と、こうして自分に石を投げて楽しんでいる人々の悪とが、確実に地続きであるということを。あの涙は、たぶんそういうことなのだと思う。
「ゲーム感覚」。非常に違和を感じさせもする言葉遣いですが、とりあえずそれは措いておいてヤマカンさんの記事を見てみましょう。
かれは、犯人の「狂気」は京アニが「「狂気」を自ら招き入れ、無批判に商売の道具にした」その「代償」だといいます。
片や僕は12年間、その「代償」を少しずつ、いや少しどころではないが、断続的に払い続けてきた。
本当に毎日のように「狂気」が襲いかかり、炎上は何百回したか解らない。
「どうしてヤマカンは俺たちの言うことが聞けないんだ!俺たちのために奴隷のように働かないんだ!」という、支配欲の塊となった人間たちからの強要・脅迫。
その声が高まるにつれ、友には見放され、代わりに周囲に集まってきた人間たちは僕を都合良く神輿に乗せては、崖から放り捨てた。
僕は体調を崩し、遂に心身共に限界を感じ、廃業宣言に至った。
その一方で、僕が12年間、何度も悔し涙を流しながら払い続けた「代償」を、京アニは今、いっぺんに払うこととなった。
いっぺんにしてもあまりに多すぎないか?僕は奥歯をギリギリ噛みしめながら、そう思う。
はっきりいってしまえば、言語道断の意見です。ヤマカンさんのいう「狂気」という言葉には、中身がない。京アニがそれを「自ら招き入れ、無批判に商売の道具にした」とすることにも根拠がない。
このような凄惨きわまりない事件に際してなお、私怨にもとづいてかれのいう「オタク」を攻撃しようとするかとも見える態度は、醜悪とも、卑劣とも思えます。じっさい、ネットでは口をきわめて非難されている。
しかし、その表現から受ける酷薄な印象をぬぐいさって見てみれば、ヤマカンさんの発言は宇野さんのそれと内容は同じです。
つまり、「悪」と「狂気」と使っている言葉こそ違いますが、インターネットで自分たちに「石を投げる」人の「悪」や「狂気」と、京アニ事件の犯人の「悪」や「狂気」は連続したものである、と語っているわけです。
これをどう受け止めるべきか。非常に迷うところですが、ここでいきなり、きょう見てきた映画の話をしたいと思います。新海監督の『天気の子』(傑作)や山崎貴監督の『アルキメデスの大戦』(大傑作)ではなく、ディズニーの『アラジン』。
てれびんのろくでなしが見に行ってぼくに延々とネタバレ感想を話したから見に行こうという気になったのですが、これは意外な収穫でした。ぼくはオリジナルのアニメ版はべつに好きでも何でもないのだけれど、この実写版は素晴らしい。
シナリオの基本線はそのままながら、人物造形が深みを増していて、非常に魅せます。
物語の軸となっているのは、主人公アラジンと悪役ジャファーの対立です。アラジンはアラビアのある架空の国の孤児で泥棒の青年ですが、ジャファーもまたかつては泥棒であった身の上であり、ふたりは自分の凄さを知らしめたいという共通の野心を抱いています。
そのため、ジャファーはどんどんダークサイドに堕ちていくのですが、魔法のランプを手に入れたアラジンもまた終盤でランプの精ジニーを自由にするという約束を破ろうとし、欲望のダークサイドに堕ちかけます。
しかし、最終的にはアラジンは救われ、ジャファーはそのまま破滅することになります。ふたりの違いは何か? どこに差があったのか? 色々と挙げることはできるでしょうが、結局、それはアラジン自身、ジャファー自身が自分で選んだことなんですよね。
ぼくはこの映画を見ていて、宇野さんはヤマカンさんのいうことをつくづく思いだしました。「悪」や「狂気」は連続したものであるという主張は、よくよく考えてみると、たしかにそのとおりであるとも思えるのです。
しかし、それは宇野さんやヤマカンさんを非難する人々と京アニ事件の犯人の間でだけ連続しているのではなく、宇野さんやヤマカンさンを含むすべての人のなかにひそんでいるものだと思います。
「悪」と「狂気」、少なくともその種子は、だれのなかにも、つまりアラジンとジャファーのなかにも、宇野さんとヤマカンさんのなかにも、かれらを非難する人のなかにも、そしてこのように語っているぼくのなかにも眠っている。
あとはそれが芽吹くかどうかの違いでしかない。そして、それを芽吹かせるか抑え込むかを決めるのは自分。『アラジン』という映画はそういうことをいっているのではないかと。
宇野さんはまだしも、ヤマカンさんの論理は論外です。自ら怒りや憎しみを集めに行っているとしか思われない。なぜ、自ら望んでこのような行動を取るのか、ぼくにはどうしても納得がいきませんでした。
でも、かれは自分が引き寄せた「怒り」や「憎しみ」に対し同じ怒りや憎しみを返していくことであそこまでになってしまったのでしょう。
自分は京アニ事件を予言した、自分は「狂気」と戦っていると主張して注目を集めようと画策するかとも見えるその姿は、まるで、かつての日の屈辱を晴らし、「自分は特別だ!」と思いこもうとするジャファーのよう。
うん、やはりヤマカンさん自身もまた、自ら「狂気」というその心性と無縁ではないように思えます。かれは自分でその道を選んだ。
ほんとうはだれでも、自分自身で愛と信頼に充ちた光の側へ行くか、怒りと憎しみに支配されて闇の側に堕ちるか、選ぶことができるのです。まさにアラジンとジャファーがそうしたように。
もちろん、『アラジン』はただの映画であり、おとぎ話です。現実には、どんなに人を愛し、誠実に行動したとしても、だれもが地位を手に入れたり、プリンセスに選ばれるわけではない。
それどころか、まさに京アニの無残な事件が表しているように、すべてが「悪」と「狂気」に蹂躙されることすらありえる。しかし、その「悪」と「狂気」に充ちたこの理不尽な世界のなかで、それでも、自分の意思だけは自分で決めることができるのですよね。
ライトサイドを選ぶか、ダークサイドへ進むか、それを決定するのは自分以外にいないということ。愛すれば愛が、信じられば信頼が返ってくる。それに対し、怒りと憎しみに対してはやはり怒りと憎しみが押し寄せてくる。選ぶのは自分。
宇野さんやヤマカンさんがいうことはたぶん一面では真実でしょう。でも、かれらは、特にヤマカンさんは自分の正義を信じるあまり、自らもまた「悪」や「狂気」を発芽させているようにも見える。
ぼくはかれがなぜあえて怒りと憎しみしか返ってこないような行動を取るのか謎に思うけれど、その道を選んだのも結局はヤマカンさん自身なんですよね。
ひっきょう、「おれはすごい! だれよりも特別なんだ!」と叫ぶほど人は孤立し、孤独に陥っていく。ジャファーのように。その反対に、何者でもない平凡な自分を認め、正直に世界と相対するとき、愛と信頼が返ってくる。アラジンのように。
いや、それはウソだ。あるいは何ひとつ返って来ないかもしれない、それどころか愛に対しては面罵が、信頼に対しては裏切りがやって来るかもしれない。けれど、それでもなお、自分自身をライトサイドに留めるものは自分だ。
古今東西、あらゆる物語で語られる光と闇の戦いって、つまりそういうことなんですよね。人間の内面の葛藤。そして選択。
だれであれ、人は初めから「悪」と「狂気」に捕らわれているわけじゃない。生まれたときにはだれもが無垢なのだから。ただ怒りに対し怒りを、憎しみに対し憎しみを返しているうちにダークサイドに堕ちていくのでしょう。
この世界で人間にはすべてが許されている。倫理だの法律だのといってみたところで、それはあくまで人間が作り出した人間のルール。神さまの法則というわけじゃない。神さまの作り出した理(ことわり)は人間にはどうにもならない。
だから、巨大な暴力や悪意に対抗するすべはほとんどない。しかし、 「それでもなお」、ぼくたちは自分自身の行動だけは選択することができる。憎しみに対し愛で返すこともできるし、愛に対して憎しみで答えることもできる。そういうことをいっている映画だと思いました。素晴らしいですね。
うむ。我ながらいいことを書いた気がする。41歳の海燕さんは違うな! お誕生日おめでとう! これからもよろしくお願いします。はい