3月のライオン 5 (ジェッツコミックス)

 「リア充」に関する記事を何本か書いた。そこでぼくが考えるリア充、ほんとうの意味で充実しているひとについて書くことにしよう。それは「根拠のない自信」を持ち、本質的なところで自分を肯定できているひとのことである。

 以前、西村博之さんの本を読んだ時、「根拠のない自信がいちばん大切だ。自分はそれを持っているから強い」という意味のことが書かれていて(意訳)、感銘を受けた。

 この場合の「根拠のない自信」というのは、何の根拠もなく自分は賢いとか偉い、優れている、と思い込んでいるということではなく、偉くなくても優れていなくても自分を肯定できるということであろう。

 具体的な成果や成功体験のような「根拠」を必要としない絶対の自信。それがひとにとっていちばん大きな武器であるとひろゆきは考えているようだ。ぼくもそう思う。

 世の中で「リア充」と呼ばれ、また自分も成功していると思っているひとの何割かは実は社会的通念の奴隷である。社会の暗黙のルールに適応し、世の中が要求する価値に順応し、周囲から高い評価を受けることが何より大切というだけのひとたちである。

 そういうひとは、あるいはイケメン(美人)で、成績優秀で、仕事もでき、恋人や伴侶にも恵まれているかもしれない。しかし、「根拠のない自信」は持っていない。なぜそういい切れるかといえば、根拠のない自信を持っていれば他人の評価など気にしないからだ。

 ひとの評価によって自信と自己肯定を形作っているひとは、どれだけその路線で成功していようと、しょせん他者評価の奴隷である。あるいは視線の奴隷といってもいい。かれらは常にひとがどう評価しているか気にし、空気を読むことに専念し、自分と同じ価値観を持っていない人間を軽蔑する。

 かれらはひとの評価によるランキングを何より重視するから、自分がそのランキングの上位にいる(と認識している)ことを誇りに思い、ランキング下位の人間を軽蔑する。そのようなランキングそのものが意味を持たない価値観というものを想像できないのだ。

 いや、そのような異質な価値観はかれらの価値観の絶対性を相対化してしまうから、積極的に否定したくなるのであろう。かれらにとっては、たとえば美容が、あるいは成績が、さもなければ仕事の実績がすべてであり、そのようなランキングの上位に上り詰めることが人生の目的そのものである。

 かれらは局地的な勝ち負けを人生そのものの価値と見なしているといってもいい。かれらにとっては恋愛や勉強や仕事で勝つことこそがすべてなのであって、そのランキングで自分より上位の者には劣等感を、下位の者には優越感を抱く。しかし、それは本質的に奴隷が鎖を誇り、あるいは嘆くたぐいの優越感であり、劣等感であるといっていい。

 その種の価値観が最も端的に出ていると思われるのがダイエットである。ぼくたちの社会は何十年も前からダイエットに夢中だ。数々のダイエット本がベストセラーになっていることからもそれはわかるだろう。

 『いつまでもデブと思うなよ』や『iPhoneダイエット』のような興味深いダイエット本(ダイエットに効果がある本という意味ではなく、ダイエットとは人間にとってどんな意味があるのか書かれている本)を読むと、徹底的にダイエットが賛美され、デブがいかに悲惨であるか切々と書かれている。

 『iPhoneダイエット』では「太っていた頃、わたしは自分が嫌いで仕方なかった」といった意味のことが書かれていた(意訳)。しかし、ぼくが興味を持つのは、なぜ太っているだけで自分を嫌いにならなければならないのかということなのである。

 人間の価値は、肉体の体脂肪率で決定されるとでもいうのだろうか。もしそうならずいぶんとシニカルな価値観であるというしかない。あるいは「いや、そうではないが、現実に人間はひとの視線に晒されるのだし、ひとは外見によって他人を判断するものだ」ということかもしれない。

 しかし、そういう「ひとの評価」によって自分を好きになったり、嫌いになったりする時点で本来の自己肯定ができていないということである。

 本来の「自己肯定」とはそういうものではない。太っていようが、痩せていこうが、愛されていようが、嫌われていようが、成功していようが、敗残者だろうが、そんなことに関係なく自分の存在を肯定できる。それがまっとうな自己肯定というものだ。

 美容や体重を気にすることが悪いというのではない。じっさい、適切な体重にダイエットすることは健康的な意味もあるだろう。だが、自分の体重の増減に一喜一憂し、そのことによって優越感や劣等感を抱くようなら、それはすでに「視線の奴隷」になっているということなのである。