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2019年のエンターテインメントを総括し、未来の物語を展望する(その1)。
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2019年のエンターテインメントを総括し、未来の物語を展望する(その1)。

2019-12-30 01:12
     ども。海燕です。このブログ、更新がとどこおりにとどこおって末期症状を呈しているわけですが、それは来年こそは何とかことにするとして、とりあえず、そのほか諸々のことを書いておきたいと思います。

     いやー、有料ブログなのにまったく更新がないってサイアクだよね。こんなどうしようもないブログにまだ何かしらの期待を抱いてくれている皆さまには感謝の至り。

     来年はどうにか――でも就職したら時間がなくなるだろうし――いや、それでも何とか――と、想いは錯綜するのだけれど、まあ、それはともかく! いよいよ2019年、冬のコミケがあしたに迫りました。

     わがサークル「アズキアライアカデミア(物語三昧)」は、南館ム-29aで参戦します。で、当然ながら、同人誌『マインドマップで語る物語の物語』の第6巻と第7巻(最終巻)を頒布します。

     これでついにシリーズ完結です。いやー、ここまで来るまで長かった。というか、よくここまで来た。1冊200ページを超す批評本を1年に4冊出すという、プロの批評家でもまずありえないハイペースだったものの、このペースでなければ終わらなかったとも思います。3年も4年も集中力はもたないもの。

     とにかくまあ、終わったことは幸いです。おおまかに分けると、第6巻のテーマは「脱英雄譚」で、第7巻は「新世界系」です。いや、じっさいには「脱英雄譚」の話が長すぎて第6巻に収まり切らず、第7巻にまで入ってしまっているのですが、とにかくこの2冊でテン年代の10年間を総括している感じです。

     たぶん、シリーズと通してもいちばん面白い、ひとつの「物語の物語」のクライマックスにあたる箇所なので、ぜひお買い求めいただければと。例によって大サービス価格1000円でお売りいたします。

     もうね、この価格は本来、倍くらいでもいいだろうということが売ってみてよくわかりましたけれど、でも、こうなったら1000円で通すのだ。もともと、べつだん、儲けを求めて始めた企画でもないですからね。

     出た利益はほとんど次の企画のために使うというスタジオジブリ方式(笑)でやっていますので、利益はほぼ度外視です。う、売れるといいな。この機会にシリーズまとめてお買い上げになるというのもありだと思います。よろしくお願いします。

     まあ、この本を読んでいただければ、ぼくたち〈アズキアライアカデミア〉がテン年代をどのように捉えているかが瞭然とするでしょう。

     とはいえ、この本の企画が始まったのは2年半ほどまえのことなので、2018年、2019年の作品についてはくわしく取り扱っていません(まったくふれていないわけでもありませんが)。そこで、この記事では、ぼくなりの2019年のまとめ、そして来たる2020年代の予測を書いておきましょう。

     いや、まあ、この種の「予言」って、本来、あたるはずもないものではあるのですが、それも含めてご笑覧いただければ良いかと思います。あたったらあたったで、外れたら外れたで、楽しんでいただければ、と。

     で、まず、2019年のエンターテインメントというと、いくつか「事件」ともいうべき作品がありました。そのなかでいちばん大きかったものは、やはり映画『天気の子』ではないでしょうか?

     じつに百数十億円の興行成績を記録し、今年最もお金を稼いだ作品となったわけですが、おどろくべきは内容的にまったく守りに入っていないこと。むしろ、攻めに攻めたといえるテーマで、凄まじくも素晴らしい一作といえるかと思います。

     具体的にはどういうことか? このブログを読んでいていまさら『天気の子』のネタバレが困るという人も少ないだろうから徹底的にネタバレしながら話してしまいましょう。

     この映画で最大のインパクトを残すのはやはり何といってもクライマックスです。主人公は最愛の少女(ヒロイン)を助け出し、彼女を救うものの、その結果、数年後に東京はなかば水没してしまうのですね。初見時、唖然とした人は少なくないと思います。

     いや、そうだけれど、ほんとにそこまでやるか、という感じ。で、これは、一見、「セカイか、個人か」という、ぼくたちがきわめて見馴れた「セカイ系」的な問題軸と見える。

     つい『最終兵器彼女』とか『イリヤの空、UFOの夏』とか、あまりにもなつかしいタイトルを思い出してしまうわけですが、その種の作品で繰り返されたおなじみの展開。

     ただ、主人公が最終的にセカイよりヒロインを選んで、その結果、セカイがほんとうに崩壊してしまう、その一点が決定的に過去のセカイ系と違っている、そのように見える。

     たとえば『イリヤ』でも主人公はいっとき、「世界を滅ぼそう」と決心しましたが、じっさいにはそこに「大人の思惑」が絡んでいって、世界は滅びずに終わることになります。いわば主人公の行動にブレーキがかかっていたのです。

     でも、『天気の子』ではほんとにセカイは壊れてしまうのですね。いわば、いままでの作品が安全を考えてブレーキを踏んだところで、アクセルをベタ踏みした印象があった。これは凄い。とにかく、いままでにない新しい展開であることは間違いない。

     が、監督自身が事前に語っていた通り、自然、批判も生まれることになる。最も詳細にして典型的なのは、『宮崎駿論』の著書・杉田俊介氏による批判でしょう。ぼくはまったく納得いかないのですが、杉田氏は、この映画をこのように捉えている。

    ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。

     「少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実」。もう、「少女」と「人柱」と「アイドル」を等式で結んでしまう時点でちょっととまどってしまうのですが、いわんとするところはわからないでもありません。

     杉田氏の目には、「日本的アニメ」とは、「少女=人柱=アイドルを犠牲にし、搾取し、その結果、多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避する」ものに見えているのでしょう。

     これはいかにも単純素朴な見方だし、「日本的アニメ」に対するあまりにもありがちな偏見を感じずにはいられず、ツイフェミあたりによくあるような視点だなあと考えてしまうのですが、それはまあいい。

     問題は、ほんとうに『天気の子』がこの種の構造に対する反発を描いた作品といえるのか、ということでしょう。ぼくはこの見方に強烈な違和感を感じる。

     もし、『天気の子』がこの「日本的アニメ」の構造に否を突きつけることを第一の目的としているのなら、それはある種の「フェミニズムアニメ」といえるかもしれないし、ある思想、言論、あるいはイデオロギーの表出と見ることもできると思うのですが、ぼくにはこれがそういう映画だとはまったく思えない。

     何といっても陽菜は作中でめちゃくちゃ可愛く魅力的に描かれているわけで、その種の描写を「少女=人柱=アイドル」を「犠牲にし、搾取する」ことと見るのなら、この映画自体がそういった「日本的アニメ」の系譜にある作品である、ということもできるわけです。

     もちろん、ぼくは数々の「日本的アニメ」(おそらくはいわゆる萌えアニメ、美少女アニメのことを指しているのでしょうう)が「少女を搾取している」というあまりにもツイフェミ的な言説には納得しないし、むしろばかばかしいとすら思うのだけれど、杉田氏の主張に従うのなら、新海監督はここで映画一作の構造を通して「日本的アニメ」を批判しているのだ、ということになる。いやあ、それはべつにないんじゃね?とぼくは思うわけです。

     で、杉田氏はさらにいいます。

    『天気の子』においてもうひとつ特徴的なのは、スピリチュアリズムとの親和性だ。特に前半において、稲荷神社や龍神系などの神道系のスピリチュアリズムを、オカルト雑誌『月刊ムー』をステップボードにして楽天的に肯定してしまう『天気の子』には、オウム真理教やカルト宗教などの危険性に敏感だったかつての時代的空気を吹き飛ばすような、あるいは「日本会議」的な歴史の神話化とも共振するような、危ういものがあるようにもみえる。

     ……いや、見えないでしょ。『天気の子』はべつに『ムー』的なオカルト雑誌の内容が正しいといっているわけではなく、むしろ『ムー』があやしげなトンデモ雑誌であることを前提として、そのあやしい世界に不可避的に出入りすることになる穂高の物語を描いているのだから。

     たしかに新海監督がスピリチュアリズムを全肯定し、トンデモな主張を展開するような人だったらドン引きですが、何といっても『天気の子』はフィクションであり、そこで超能力やら魔法やらが肯定的に描かれているとしても、それは現実世界においてスピリチュアルなものを肯定するかどうかとはまったく別次元の話です。

     『天気の子』に対し「スピリチュアリズムを肯定している!」と批判するのは、『ハリー・ポッター』を読んで悪魔崇拝の危険を連想するようなトンデモ連想にほかならない。

     まして「「日本会議」的な歴史の神話化とも共振する」とかいわれると、こちらとしてはうんざりするしかないですね。ここにあるものは、青春エンターテインメントを個人のイデオロギーに引き付けて見る、いかにも偏った見方ではないのか。

     フィクションはフィクションであり、エンターテインメントはエンターテインメントなのであって、それに現実社会の問題を投影して見るのは、やはり短絡でしょう。あまりにもあたりまえのことではあるが、そう思います。

     『天気の子』にあるものはむしろ観客はフィクションをフィクションとして消化しえるという、視聴者の健全なリテラシーへの信頼であり、『ムー』的なものを礼賛しているわけではべつだん、まったくないのです。

     で、いちいち長々と引用したうえで批判しつづけるのもどうかとは思うのですが、この先が決定的なところなので、もうちょっと引用させてもらうと、杉田氏はこの映画の衝撃的なクライマックスをこう受け取ります。
    それに対し、帆高は「陽菜を殺し(かけ)たのは、この自分の欲望そのものだ」と、彼自身の能動的な加害性を自覚しようとする、あるいは自覚しかける――そして「誰か一人に不幸を押し付けてそれ以外の多数派が幸福でいられる社会(最大多数の最大幸福をめざす功利的な社会)」よりも「全員が平等に不幸になって衰退していく社会(ポストアポカリプス的でポストヒストリカルでポストヒューマンな世界)」を選択しよう、と決断する。そして物語の最終盤、帆高は言う。それでも僕らは「大丈夫」であるはずだ、と。

    象徴的な人柱(アイドルやキャラクターや天皇?)を立てることによって、じわじわと崩壊し水没していく日本の現実を誤魔化すのはもうやめよう、狂ったこの世界にちゃんと直面しよう、と。

    しかし奇妙に感じられるのは、帆高がむき出しになった「狂った世界」を、まさに「アニメ的」な情念と感情だけによって、無根拠な力技によって「大丈夫」だ、と全肯定してしまうことである。それはほとんど、人間の世界なんて最初から非人間的に狂ったものなのだから仕方ない、それを受け入れるしかない、という責任放棄の論理を口にさせられているようなものである。そこに根本的な違和感を持った。欺瞞的だと思った。

     いやいやいやいやいやいやいやいやいや。ここで、ぼくは決定的についていけないものを感じる。そうではないでしょう。杉田氏はこの映画の最も重要で本質的な部分を、致命的に取り逃しているように思えます。

     それはたしかに、そこをそう見てしまうのならこの映画は駄作としか思えないだろうし、「もうすこしがんばりましょう」マークを付ける欲求に抗えなくなってもおかしくないけれど、その見方はあまりにも一面的です。先を見てみましょう。

    たとえばそこでは「人間たちの力によってこの社会は変えられる」という選択肢がなく、社会のあり方もまた気候変動のようなもの、人為の及ばない「想定外」なものとして、美的に情念的に観賞するしかないものとされてしまう。それはまさに日本的なロマン主義であり、そのようなものとしての「セカイ系」(後述)である。

     ええっ。

    にもかかわらず、『天気の子』には、東京の生態系をここまで変えたのは誰か、それを若者や将来世代に負担させるのはどうなのか、というエコロジカルな問いが一切ない。

     「君とぼく」の個人的な恋愛関係と、セカイ全体の破局的な危機だけがあり、それらを媒介するための「社会」という公共的な領域が存在しない――というのは(個人/社会/世界→個人/世界)、まさに「社会(福祉国家)は存在しない」をスローガンとする新自由主義的な世界観そのものだろう。そこでは「社会」であるべきものが「世界」にすり替えられているのだ。
    「社会」とは、人々がそれをメンテナンスし、改善し、よりよくしていくことができるものである。その意味でセカイ系とはネオリベラル系であり(実際に帆高や陽菜の経済的貧困の描写はかなり浅薄であり、自助努力や工夫をすれば結構簡単に乗り越えられる、という現実離れの甘さがある)、そこに欠けているのは「シャカイ系」の想像力であると言える。

     いやー、なるほど、そこをそう見るのか。でも、それはダメでしょ。杉田氏の理解ではこの映画がなぜ若者たちを初めとする現代の観客を感動させ、かれらの支持を受けて大ヒットしたのか説明できない。この映画の最も本質的な魅力を受け止め損ねているからです。

     いや、一応は説明できるのですが、それは「ばかな若者たちが新海氏の欺瞞にあふれるトリックにだまされたのだ(でも賢い自分は気づいた)」という、いかにもウエメセの解説になってしまうでしょう。そうではない。そうでは、ないのです。

     穂高のいう「大丈夫」とは、その種のあきらめでも、妥協でもないのだということがわからないと、『天気の子』は本質的に理解できないと思う。

     どういうことでしょうか? まず、たしかに穂高はラストシーンで自分たちの置かれた状況、水没しかけた世界を「大丈夫」だ、と認識します。しかし、それは杉田氏が語るような能天気な現状追認ではない。まったくない。

     むしろ、穂高は自分たちが置かれた状況がいかに残酷で、救いがなく、どうしようもなく追い詰められたものであるのかを深く強く認識するからこそ、そのうえで、「それでもなお、大丈夫だ」と呟くのだと受け止めるべきです。

     これだけでは何をいっているのか意味がわからない人もいるでしょうから、これから一応は説明しますが、でも、このことはほとんどの観客が直感的に理解できたと思うんですよね。まさにそうだからこそ、『天気の子』は大好評、大ヒットの作品となったわけなのですから。

     杉田氏は若い観客が新海監督によるある種の間違えた、歪んだ、狂った、欺瞞的なメッセージにだまされたに違いないと考えて警鐘を鳴らしているのかもしれませんが、ぼくにいわせればむしろこの映画を正しく理解しているのは多数派の観客のほうだと思います。

     少なくとも若い層はこの映画のメッセージを直感的に理解し、感動したはずなんですよ。そう考えないとおかしい。

     具体的に説明するなら、まず、杉田氏は穂高の「大丈夫」を、「無根拠な力技によって「大丈夫」だ、と全肯定してしまう」と語っていますが、ぼくはそうではないと考えます。

     穂高は、自分たちがいかに「大丈夫」ではない状況にあるのか、きわめて冷静かつ深刻に認識していると見るべきです。だって、東京が水没しかけているんですよ? 単純な意味では「大丈夫」なわけがないじゃないですか。そんなことは穂高にもわかる。観客にもわかる。だれにでもわかる。

     ぼくたちの現実は素朴な意味では、ちっとも「大丈夫」ではない。それを穂高はわかっている。なぜなら、現実のかれの世代がそう認識しているからです。

     「いまどきの若い者は――」という、よくある詠嘆に反して、現代の若者たち、少年少女たちは現実のシリアスな苦しさ、状況のままならなさを上の世代よりはるかによく理解しています。かれらはその意味で、並大抵の「大人」よりよほど大人なのです。

     それはもちろん、杉田氏がいうように「社会」を「セカイ」に置き換えることによって、「この狂ったセカイはどうにもならないのだ」とあきらめ、絶望してしまっているから「ではありません」。

     それとはまったく逆に、「セカイ」ならぬ「社会」が、たしかに一面で「メンテナンスし、改善し、よりよくしていくことができるものである」ことを正確に認識しながら、同時に、そのメンテナンスが、改善が、いかにむずかしく、ままならないか、この現実社会がいかに自分たちを中心に回っていないのか、そのことに打ちのめされており、そして、それでもなお、そこを生き抜いていきたい、生き抜いていけるのだという「意思」を持っているからなのです。

     その決然たる意志の宣言こそが、「ぼくたちは大丈夫」というひとことだと受け止めなければなりません。

     繰り返しますが、「「社会」とは、人々がそれをメンテナンスし、改善し、よりよくしていくことができるものである」と杉田氏はいっています。

     なるほど、彼のいうことは一面では正しい。たしかに、ぼくたちはこの現実をあきらめず、社会が良くなるよう改良を続けていくべきだし、それを「どうしようもないこと」として簡単に絶望してしまってはならないでしょう。

     その意味ではたしかに、「あきらめたら社会終了ですよ」だといっていい。われわれひとりひとりには、社会を「正しいかたち」に変えていくよう、不断の努力を続ける権利と義務がある――なるほど、なるほど。

     また、おそらく、そういったすがすがしい努力を描き、若い世代に「この社会はきみたちの手で変えていくことができるし、そうするべきだ」というあかるいメッセージを届けることこそが、彼がいうところの「シャカイ系」の物語なのでしょう。

     そこには、『天気の子』がまさにそうだという「「社会(福祉国家)は存在しない」をスローガンとする新自由主義的な世界観」とは違う、リベラルな世界観があるのでしょう。

     しかし――ぼくは思わずにいられない。そういった左翼イデオロギーの教科書めいた、杉田氏がいうところの「シャカイ系」のストーリーが若い視聴者にどれほど響くでしょうか? ぼくは、まったく響かないのではないかと思うのです。

     なぜなら、これも繰り返しになりますが、個人の力で社会を変えることがいかにむずかしく、現実社会がいかにきびしくままならないか、それを心底思い知らされているのがいまの若者たちだからです。

     いまの若者たちにとって、そういう意味で「ネオリベラル系」な現実はまず前提として存在するものであり、それを直接的に描いたからこそ、『天気の子』はまさに「いまの物語」として評価されたのだとぼくは捉えます。

     もちろん、杉田氏はいうかもしれません。それでもなお、そういったまったく「大丈夫」ではない現実に絶望してしまうのではなく、それを少しでも良くしていこうと努力しつづけることが大切なのだし、現実を短絡的に「大丈夫」だと思い込んでしまうことは、「ネオリベラル系」な思想を肯定することにつながることなのだ、だから良くないのだ、と。

     それはまあ、正しい。正当な意見でしょう。しかし、「社会」は一面でたしかに「メンテナンス可能」なものである一方で、同時にそう簡単に変革できるものではないことも事実です。

     「ネオリベラル系」な社会をどうにかするべきだ、もっと個人を大切にした、理想的な社会を作るように努力するべきだ、だから妥協したりあきらめたりしてはいけないのだ、それはぼくもそうだと思う。正しいと思う。

     しかし、その一方で、それは何と現実離れした、少なくとも若者層の体感からほど遠い主張なのだろうかとも思わずにはいられないのですね。

     そう、「もっと努力を続けるべき」、「社会をあきらめてはいけない」、そのスローガンは力強く理想を説いたものである一方で、どこまでも空虚な理想論であるに過ぎない。

     たしかに、杉田氏のいう通り、あたかも人為がまったく通用しない巨大な「セカイ」そのものであるかのように思える自然環境すらもまた人為が大きく関与する一個の「社会」であり、人間が改善し、メンテナンスしていくことが可能なものである、ということはできるでしょう。口先でいうだけなら。

     だけれど、その一方で、ぼくたちひとりひとりの個人が、環境問題という「大きな物語」を解決に導くことはほとんど不可能に近い。「理屈のうえでは解決可能だし、そうするべきだ」ということと、「現実できることはほとんど何もない」ことは両立しえるのです。

     また、環境問題はきわめて複雑かつ高度に政治的な問題であり、そもそも何が「解決」なのか? それすらもたしかではありません。だからこそ、あのグレタ・トゥーンベリ氏のように、シンプルきわまりない社会批判を展開すればそれで良いということには、どうしたってならないのです。

     あるいは、杉田氏が構想する「シャカイ系」の物語は、グレタ氏のような人物を主人公とするものなのかもしれませんね。現実をあきらめず、改革の情熱に燃え、既存の社会的既得権益を敵にまわして戦いつづける――シャカイ改革の闘士。

     しかし、そういったストーリーは、いかにも古くさい。そして、「甘ったるい」。「いま」の社会の現実を体感的にヴィヴィッドに感じている層は、その種の「もっとがんばれ」という「希望に満ちたストーリー」を、けっして「リアル」とは受け取らないでしょう。

     何度もいいますが、それは「社会の可能性をあきらめ、社会を変更不可能の「セカイ」として認識しているから」ではなく、社会改革の困難さと、そして「理想」や「正義」の不透明な複雑さを冷静に認識しているからです。

     つまり、若者を初めとしていまの社会を生きる人々は、べつだん、「社会なんてどうにもならない」、「すべてあきらめて、スピリチュアリズムに頼ろう」などとは思っていない。しかし、社会を「良い方向」に変革していくことの困難は、身に染みてわかっている。そういうことなのです。

     そう、人間の「社会」は「セカイ」ではない。人間の手で変えていくことができる。しかし、それと同時に、かぎりなく変えづらく、また、変えたから良くなるとも限らない。善意の行動が悪い結果につながってしまうことも充分にありえる。

     その冷めた現実的な認識こそが、『天気の子』に――そして、テン年代の傑作群にはあるのです。それが「時代の空気」。それで――ぐわー、いつまでも終わらないから、「その2」へ続く! ここでいったん切りますが、続けて更新します! つづきも読んでね! でわ!
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