「コンテンツ生成システム化する「小説家になろう」系WEB小説群」という記事を読みました。いまや「コンテンツ生成システム」と化しているという「なろう小説」についていくらか批判的かつ揶揄的に語った内容で、以下のようなことが書かれています。
商業化した小説も、無料で読めるなろう連載版も同じ文字ですから、なろう掲載時に応援していた読者が商業化した小説を買い求めるのはご祝儀的な意味がけっこうデカいことは想像がつきます。あとはヒロインがどんな姿格好でイラストになっているか、とか。わりと買っても読まないよね、出版されたなろう系小説。スマホでダラダラ流し読みできるから商業化してクオリティが一定担保されている小説よりなろう系を選んできたわけだから。フォーマットが不便になってさらに有料になったともとれるわけです。
https://note.com/tabloid/n/ne58358f43d60
「読まないよね」ということですが、じっさいに読んでいるぼくからすると「そんなことはない」としかいいようがありません。
そもそもあれだけ膨大な数が出ているなろう小説が一般に「ご祝儀的な意味」で買われている側面が大きいと見るのは無理があるんじゃないかな。やっぱり読まれているからこそ売れていると見るのが当然だと思うのですよ。
昔は商業出版されるときにはウェブ掲載された作品を削除したり、ダイジェストに変えたりしていましたが最近はそれも少なくなったところを見ても、商業出版とウェブではべつの市場があると考えることが妥当なのではないかと思います。
もちろん、同じ作品を「小説家になろう」で読めば無料であるわけですが、商業版を買う読者はいちいち「なろう」に読みに行ったりしない気がします。
それがなぜなのか、イラストがあるからなのかそれとも紙の本という形式に愛着があるのか、それはわかりませんが、ぼく自身も「なろう」ではほとんど作品を読まず、本を買って読んでいますからなんとなくわかるような気がします。
それでは、なぜ「なろう系」は読まれるのか。上記記事ではなろう小説の「クオリティ」の低さが嘆かれていますが、ぼくはこの見方には懐疑的です。そもそも従来のラノベがいうほどクオリティが高かったのかが疑問です。
たしかに誤字脱字は相対的にチェックされていたかもしれませんが、「なろう系」との差はその程度じゃないかなあ。そもそも「なろう系」の「クオリティ」の低さを笑おうにも、ラノベ自体がさんざんその「クオリティ」の低さを批判されてきたジャンルであるわけです。
純粋に小説を「クオリティ」で評価するならすでに名作という評価が確立された古典を読みますよね。それでは、ラノベのターゲットだった若い読者は『吾輩は猫である』や『細雪』や『伊豆の踊り子』や『金閣寺』を読むのか。読まないですよね。そのかわりに「クオリティ」でははるかに低いと思われる『スレイヤーズ!』やら『涼宮ハルヒの憂鬱』やらを読んできたわけです。
なぜか。そこに「いまの空気」があったからでしょう。つまり、ラノベ読者は一貫して「クオリティ」よりも「同時代性」を重視して小説を読んできたわけです。ラノベ作家たちもそれを良しとして「クオリティ」より売れること、ヒットすることを重視して作品を生み出してきたといって良いでしょう。
それなのになろう系が出てくると突然に「クオリティ」を問題にしだすのは、それだけでも従来のラノベがエンターテインメントとして古くなったことを感じさせます。なろう系は「コンテンツ生成システム」と化しているというけれど、それでは従来のラノベは違ったの?という話です。
従来のラノベだってマンガやアニメといったメディア展開なしには成立しない構造をしていたとぼくは思います。べつになろう系が出て来て何が変わったわけでもない。
ただ、従来のラノベがさらに「ラノベらしい」作品群の登場によって一世代古いものになってしまっただけのことです。従来のラノベの関係者がそれを笑うのは、まさに天に唾する行為だといえるでしょう。
また、もっというなら「クオリティが低い」と批判することは小説に一定の「クオリティ」の基準が存在することを前提としているわけですが、そもそも小説の「クオリティ」とは何か、という話があると思うのですよね。
まあ、文章力とか構成力とか、いろいろあるとは思いますが、すべての読者がそういった基準に賛同するわけではありません。文章なんてどうだっていい、それよりキャラクターだなどと考える読者は大勢いるだろうし、べつだん、それが間違えているともいえないわけです。そもそういう価値観を示してきたのがライトノベルなのではなかったでしょうか。
ただ、だからといって一読者としては「売れていれば何でも良いのだ」と開き直る気にはなれません。売れるか売れないかはビジネスとして小説を見るとき重要な基準になるでしょうが、読者、あるいは消費者にはまったく関係ない話だともいえます。
読者としてのぼくはやはり自分が「良い」と思う作品を選んで読んでいきたいし、できれば作家にもぼくの価値観で「良い」と思える作品を生み出してほしいのです。ただ、それがかならずしも商業的成功につながるかというと、それはわからない。
だから、小説の商業的成功と「クオリティ」にはしばしば矛盾が存在する。自分が考える「クオリティ」を追求すればするほど売れなくなるということがありえるのです。また、逆に「クオリティ」が低いものを出すほうが売れるということもある。
望公太さんの『ラノベのプロ!』という作品に、このようなセリフがあります。
「読者の需要に応えるのがプロ作家の仕事だよ。僕はただ、読者のために書いてるだけ……みんなが求めているんだよ。二番煎じを、劣化コピーを、後追いを、便乗商法を、パクリを、トレスを、テンプレを、レプリカを、シェアワールドを、類似品を、粗悪品を……求めているのは、他でもない読者なんだ」
「トレス」と「シェアワールド」は違うだろう、とは感じるもの、一面、非常に的確に商業小説の問題を指摘したセリフだと思います。というか、ひとつ商業小説、あるいはライトノベルの枠を超えて、「商品を売ること」が孕む問題を指摘しているといって良い。
つまり「クオリティ」が低いもののほうが売れることがありえるとしたら、あえて「クオリティ」の低いものを売ることは許されるべきかどうか、というビジネスモラルの話ですね。
作中、このセリフを放った本人はそれを朗らかに肯定してしまうのですが、主人公は反発します。ただ、反発するだけで的確に反論することはできない。やはりビジネスとしてラノベを選んだ以上、ひたすらに「クオリティ」にこだわることはかれにもできないわけなのです。
ぼくはここで料理漫画の傑作『ラーメン発見伝』を思い出します。この作品の敵役にして陰の主人公ともいうべき存在は「ラーメンハゲ」こと芹沢達也です。かれはまさに自分が最高だと考えるラーメンを売りつづけ、理解されず、自分が駄作だと考えるラーメンのほうが評価されるという経験をします。その結果、かれは自分のラーメンをたべる客を信じられなくなってしまうのです。
その経験を通して芹沢は「プロ」になります。自分ほど鋭くない客の味覚、あるいは価値観にアジャストするラーメンビジネスの「プロ」に。それが「堕落」だったのか、それとも「成長」と呼ぶべきなのか、それはわかりません。しかし、ともかく作中で芹沢は「プロ」の論理でもって「優秀なアマチュア」に過ぎない主人公のまえに立ちふさがります。
この例を見ればわかるように、「プロ」であることを選ぶか、それとも自分の信じる「クオリティ」を重視するかということはむずかしいところです。
夏目漱石の『それから』に、「食ふために働く」ことに関する有名なやり取りがあります。
「つまり食ふ為ための職業は、誠実にや出来悪にくいと云ふ意味さ」
「僕の考へとは丸で反対だね。食ふ為めだから、猛烈に働らく気になるんだらう」
「猛烈には働けるかも知れないが誠実には働き悪いよ。食ふ為ための働きと云ふと、つまり食ふのと、働くのと何方が目的だと思ふ」
「無論食ふ方さ」
「夫れ見給へ。食ふ方が目的で働く方が方便なら、食ひ易い様に、働き方を合はせて行くのが当然だらう。さうすりや、何を働いたつて、又どう働つて、構はない、只麺麭が得られゝば好いと云ふ事に帰着して仕舞ふぢやないか。労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から掣肘される以上は、其労力は堕落の労力だ」
「まだ理論的だね、何どうも。夫で一向差支ないぢやないか」
「では極上品な例で説明してやらう。古臭い話だが、ある本で斯こんな事を読んだ覚えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱へた所が、始めて、其料理人の拵へたものを食つて見ると頗る不味かつたんで、大変小言を云つたさうだ。料理人の方では最上の料理を食はして、叱かられたものだから、其次からは二流もしくは三流の料理を主人にあてがつて、始終褒められたさうだ。此料理人を見給へ。生活の為に働らく事は抜目のない男だらうが、自分の技芸たる料理其物のために働く点から云へば、頗る不誠実ぢやないか、堕落料理人ぢやないか」
「だつて左様しなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云はゞ、物数奇にやる働きでなくつちや、真面目な仕事は出来できるものぢやないんだよ」
ここでは生活のために働くこと、つまり「プロ」であることは「堕落」であるとして否定されているわけです。つまり、料理人であるならば客の嗜好にかかわらず、自分の信じる「一流」の料理を提供することべきである、それが「誠実」な料理人のあり方だということでしょう。
その意味で、客の好みに合わせざるを得ないプロの料理人はすべて「堕落」していることになる。しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。
早見慎司さんに「終夜図書館」という傑作短編があります。この作品のなかでは、時代に合わなくなって売れなくなった作家たちが集められ自分の好きな作品を好きなように執筆しています。
『それから』で語られた意味ではまさに作家の理想郷ということになりますが、おそらく作家自身が仮託されていると思しいこの作品の主人公は、そこに不気味なものを感じ、その場所を拒否するのです。
なぜその「図書館」は不気味なのか。それは、そこに客という名の「他者」がいないからでしょう。「他者」がいない小説、それはどこまでいっても自己満足です。べつだんそれがすべて悪いというわけでもないでしょうが、「他者」と交流するために小説を書いてきた主人公にとっては、まさにそれこそが「堕落」に思えるわけです。
つまり、ここでは『それから』とは逆方向の「堕落」が描かれていることになる。いったいどちらが正しいのか。もちろん、いずれが正しく、いずれが間違えているというものでもないでしょう。
じっさいのところ、ほとんどのプロ作家は、信長の料理人のようにひたすらに客の欲望に即してアジャストするわけでもなく、そうかといってただ単に自分の我を通しつづけるわけでもなく、そのあいだのどこかで「すりあわせ」を行っているものと思われます。
ここで重要なのは、作家の考える「クオリティ」とは絶対的なものではなく、あくまでその作家個人の価値観に過ぎないということです。信長の料理人は信長に「一流」の料理を出したと信じていたかもしれませんが、信長にはべつの価値観があり、その価値観ではそれは二流、三流の料理に過ぎなかったとも考えられるわけです。
そうであるなら、あくまで自分の信じる「一流」の料理を出すか。それとも信長の考える「一流」に合わせるか。いいえ、そうではなく自分の信じる「一流」と客の考える「一流」をかぎりなく一致させようと努力する人を、ぼくは「真のプロ」と呼びます。
もちろん、世の中にはただ自分の考える一流品を出せば客にも喜ばれるという人もいて、そういう人は「天才」と呼ばれたりしますが、その天才ですらいつまでもその「蜜月」が続くわけではありません。いつかは作家と客の価値観はずれていきます。
そのとき、作家は自分と客の価値観の「すりあわせ」を行わなければならない。自分の信じる一流を放棄するのでもなく、客の考える一流を無視するのでもなく、その両者を満足させる作品を模索する。きわめてむずかしいことではありますが、それが「真のプロ」だと思います。
ぼくはそういう「真のプロ」を高く評価します。その意味で、一概になろう小説を否定する気にはなれません。作家にはただ自分が「クオリティが高い」と信じるものを出す「優秀なアマチュア」の道でもなく、ひたすらに客の嗜好に合わせる「二流のプロ」の道でもなく、「真のプロ」の道を行ってほしい。それはあまりに望みすぎでしょうか。しかし、ぼくは本心からそう思うのです。
なろう系の「堕落」を笑うことはたやすいでしょう。しかし、それが何を意味するのか、エンターテインメントはどうあるべきなのか、よく考えてから笑うことにしたいですね。
おしまい。