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『俺ガイル』は分裂と対立の時代における最先端のテーマを扱った文学的傑作(!)だったという話。
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『俺ガイル』は分裂と対立の時代における最先端のテーマを扱った文学的傑作(!)だったという話。

2020-12-03 17:57
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     賛否両論のNIKEのCMについて、この記事が面白かった。


     賛成、反対、両方の意見が載っているのだけれど、ぼくが興味深かったのは、やはり批判的な意見です。

    他方で、幼少時にイタリアでいじめられた経験があるという元経産官僚の宇佐美典也氏は、「ものすごく嫌な気分になった。嫌いだ」と切って捨てる。

    「吐くほどいじめられた。今でも夢に出るくらいだ。だからアングロサクソンに対しても、ずっと不信感を抱いてきた。しかし東日本大震災のときに米軍が日本人を助けてくれている姿を見て、自分の中のモヤモヤしたものが抜けていった。一方で、僕もいじめる側になったこともある。差別というのは、する側とされる側がいる。そのお互いがいかに理解し合い、問題を解決していくのか。そういう姿を描いてほしかったのに、今回の動画では差別される側だけが取り上げられているし、しかもスポーツによって一人で克服していくヒーローのように描かれていると感じた。逆に言えば、克服できなかった奴、スポーツができない奴は弱い奴になってしまわないか。僕がイタリア人にいじめられていた時にほしかったのは、“一緒にスポーツしようぜ”と手を差し伸べてくれる存在だった。いま、現実にイジメられている人たちが何を求めているかということも考えないといけなかったのではないか」。

     これ、すごく面白い意見だなあと思うんですね。つまり、このCMで「弱者」、「被差別者」、「マイノリティ」として描かれている人物たちが、じつは他方では「スポーツによって一人で克服していくヒーロー」としての属性も持っているという指摘であるわけです。

     人種的には「マイノリティ」だけれど、能力的には「ヒーロー」なんだよ、という描写のCMになっているということ。これはほんとにそうで、このCMは「選ばれしヒーローとしてのマイノリティ」を描き出したものなんですね。

     じゃあ、ヒーローになれない人間はどうすれば良いんだということにはまったく答えていない。もちろん、たかが一本のCMにそこまでの内実を求めることは必須ではないけれど、単純なヒーロー礼賛に留まってしまっているという評価にはならざるを得ない。

     で、なぜこのCMが反発を受けるかというと、ようするに「上から目線の説教」になっているからですよね。おまえらは気づいていないだろうけれど、この国にはこんなに人種差別があるんだよ、だから反省して注意しなさい、というめちゃくちゃ偉そうな説教。

     これが左派が嫌われる理由を端的に示していると思う。自分たちの正義を疑わず、それをウエメセで押しつけてくるという尊大さ。

     でも、左派のほうはその傲慢に気づかず、ひたすら「あいつらはあまりに正しいことをズバッと指摘されたから受け入れられずに困っているんだろ」としか考えない。そのことを象徴する発言が、たとえば、これ。

    また、動画への批判についても、「“自分の周りにはなかった”とか、“大したことないと言える人が、この社会のマジョリティなんだろうと思うし、このような社会問題を気にしなくても済んでいる状況にたまたま位置づけられている人々が反発しているのだと思う。だからこそ、自分たちが知らない間に差別に加担したと指摘され、すごく動揺しているのだと思う」と分析。「マイノリティが何かを言うことによって分断が生まれているわけではなく、そもそも人種差別などの不平等と不公正が存在し、そのことによって楽しい学生生活や、アスリートとして活躍するチャンスそのものを与えられない人たちがいるということ可視化・認識するところから始めていかなければいけないのではないか」と話した。

     おそらく無意識だと思うけれど、批判者を非常に下に見て、「自分たちが知らない間に差別に加担したと指摘され、すごく動揺しているのだと思う」と決めつけている。

     ぼくにいわせれば、じっさいに差別していないのに「差別に加担したと指摘」されたら怒って当然だと思うのですが、この方はその「告発」をまっすぐ受け入れて反省するのが「正しい態度」だと考えているのでしょうか。

     しかし、この記事のあとのほうで佐々木俊尚さんも書いている通り、もはやシンプルな「弱者/強者」、「マイノリティ/マジョリティ」という図式を固定的に考えることは無理があるのだと思います。

     あるひとりの人のことを単純に「あいつは弱者だ」とか、「こいつはマジョリティだ」などと決めつけることはできないのです。

     なぜなら、ひとりの人間には複数の「属性」があり、見方によっていくらでも「マイノリティ」とか「マジョリティ」といった位置づけは逆転するから。

     たとえば「黒人」の「レズビアン」の「女性」はいつも「被害者」で「被差別者」かといえば、かならずしもそうではない、世界はそんなに単純に出来ていないのです。

     しかし、だからといって、そこに「差別」なんてものはないのだと開き直ることもまた間違えている。「差別」は厳然としてあるし、それは認めなければならない。ただ、だれが「加害者」でだれが「被害者」なのかは、かならずしも自明ではないのです。

     これ、あきらかにテン年代のライトノベルが「非リア(オタク)」対「リア充」という硬直した図式を壊していったプロセスと重なる話ですよね。ペトロニウスさんがこのように書いている通りです。 
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