魔性の子 十二国記 (新潮文庫)

 あるひとつの世界を眺めるとき、どういう視点で見るかによってまったく違ったものが見えることは知っておくべきだろう。高みから見下ろすのと、低みから見上げるのでは、同じものを見ているのとは思えないほどの違いが出てくるはずなのだ。つまりマクロを重視するか、ミクロを重んじるかという違いである。

 マクロの視点においては、全体を救済することが至上の価値をもつ。そのためには、個人を犠牲にしなければならないこともある。100人のひとがいるとして、その100人全員を救うことができれば最高なのは間違いないのだが、どうしても10人を犠牲にして90人を救けるといった選択をしなければならない局面が出てくるものだ。

 だから、マクロの決定はときに小さな人々を圧殺する。一方、ミクロから見れば自分たち、せいぜい家族や友人までの生活が最優先である。世界の命運だの、国家の行方だの、知ったことではない。そういった巨大な大義のために、自分たちが犠牲になってやらなければならない理由などないと、だれでも考えることだろう。そういうものだ。

 物語世界においてもそれはそうである。マクロの視点に立って、世界や人類や国家を見る物語と、ミクロの視点に立って個人個人のささやかな生活を見つめる物語とでは、まったく違う作品になる。

 もちろん、最良の物語は、しばしばそのふたつの視点が交錯するところを表すものだ。マクロの視点とミクロの視点を併せ持ち、その片方に寄ることなく、全体を描き出す。それが最良の物語のひとつの条件である。

 たとえば田中芳樹の『銀河英雄伝説』はマクロ視点から描いた物語だが、『創竜伝』は比較的ミクロ視点に寄っている。『銀英伝』では世界を睥睨する英雄が主人公となり、かれがその辣腕でもって世界そのものを動かしていくさまが描かれる一方で、その英雄によって踏み潰される個人のささやかな幸せというものには光があたらない。

 もちろん、田中芳樹がそれを意識していなかったはずはない。たとえば「ヴェスターラントの惨劇」において、核爆弾による大量虐殺を政治的配慮から見逃した主人公ラインハルトが、のちにその罪を告発される展開などを見ると、田中が決してミクロな生活を軽視していないことがわかる。それでもなお『銀英伝』はマクロの物語であり、ミクロは描かずに済まされることが多かっというだけのことである。

 一方、『創竜伝』では、巨大権力の魔手に狙われながら、あくまでも自分の生活を護ることを最優先するある兄弟の視点から物語が綴られる。ここでは、マクロを重視する権力の視点は描かれない。個人の生活こそが最大の価値であり、それを圧殺しようとするものは悪なのである。このふたつの視点の物語を描きえたあたり、やはり田中はただ者ではない。

 小野不由美の『十二国記』なども、マクロとミクロの相克を描いた傑作だ。陽子を初めとする主人公たちは、ほとんどが一国の王の地位から物語を眺め下ろしているが、その一方で民衆たちの小さな生活は克明に描かれている。小野の、大なるものと小なるものを描き分けるバランス感覚はただ事ではない。