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ToDoリストに「生きる」と書き込む。
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ToDoリストに「生きる」と書き込む。

2022-03-14 19:00
     どうも、おひさしぶりです。数ヶ月にわたってブログを休止してしまって申し訳ありません。

     そのあいだ何をしていたかというと、べつのブログを運営していたりしたのですが、さすがに良心が痛むのでこちらのブログを更新しようと思います。

     今後は定期的に更新することをめざします。まあ、いいかげんもはや信用してもらえないかもしれませんが……。

     さて、ぼくが無意味に日々を過ごしているあいだに、コロナ禍は何度目の流行と終息を見せ、ロシア軍はウクライナに侵攻し、世界はまるで違うところに変わってしまったわけですが、その最中、ぼくはいつものごとく自分の無為さにうんざりしていました。

     こうも無気力な日々を送っていると、さすがに改善して計画的な人生を送ろうと思うわけですが、どうにもうまくいかず、あい変わらず無価値な毎日が続くばかり。

     そこで考え出したのが「ダメ人間ライフハック」という方法論でした。

     ダメ人間ライフハックとは! ダメ人間が、ダメ人間のままより良く生きていくやり方のことです。

     ダメ人間をやめられないのなら、どうにかダメなままで状況を改善できる方法がないかと考えたわけです。

     そこでまず、「ダメ人間ToDoリスト」なるものを考えつきました。これは通常のToDoリストアプリを使うやり方なのですが、ふつうと違うのは日常生活のありとあらゆる些細なことまでリストアップすること。

     「顔を洗う」とか「体重計に乗る」ということまでいちいちリストに入れることによって、そういったことを「習慣化」しようとしているわけです。

     何しろ、ダメ人間はこういったことすらも時に忘れがち。自宅にひきこもっているとなおさらです。

     で、これは効果がありましたね。ふつうの人にはばかばかしいものとしか思えないかもしれませんが、このリストによって自分の日常の習慣の一々が可視化されたわけです。それには大きな意味がある。

     ちなみに、このリストのいちばん上には「生きる」という項目が入ります。この項目はとりあえず毎日起きた瞬間にチェックできるわけで、「ただ生きているだけで価値がある」ことの確認になる。それは自己肯定感にとって大変に良い作用があるのですね。

     「ダメ人間ToDoリスト」、ぼくはスマホが起動するのと同時に起動するように設定しています。なかなか計画的に行動できないという人にはオススメのやり方ですね。

     しかし、そうやって「ダメ人間ライフハック」について考えているうちに、そもそも「ダメ人間」という概念そのものに疑いを感じ始めて来ました。

     ぼくはほんとうに「ダメ人間」なのだろうか? それ以前に、「ダメ人間」としかいえない人間と「普通の人、あるいは立派な人」がいるという考え方は正しいものなのだろうか、と。

     たしかに、弱い人、ダメな人と強い人がいることは一見すると自明に思えます。トップアスリートやアーティストのように、強い意志をもって一貫して夢を追う人間がいる一方で、すぐに挫折して投げ出す人もいることはたしかです。

     この「意志力」、あるいは「自制心」、専門的には「実行機能(エグゼクティヴ・ファンクション)」などと呼ばれる能力を調査した試験に、有名な「マシュマロ・テスト」があります。

     これは子供たちの自制心をお菓子のマシュマロによって調べた調査で、数十年にわたって継続的に調べられた結果、「実行機能」の強弱が人生を大きく左右することがわかりました。

     つまり、子供の頃、目の前のマシュマロを我慢できるような人間は長じても成功する確率が高いということです。

     これはいかにも救いのないあたりまえの結論とも思えます。ようするに子供の頃から意思が強い人間と弱い人間は決まっていて、それで人生は決まってしまうのだ、とも思われるからです。

     ですが、じつはこの「意思の力」によるセルフコントロールはさまざまな方法によって強化することができるらしいのです。

     単純に遺伝や環境によってすべてが決まってしまうというわけではない。

     辛い状況に耐え、努力し成長しつづけるような行為は単純に「意志力」によって成し遂げられるというよりは、具体的な方法論があると考えるべきでしょう。

     ある人にとって快適な状況を「コンフォート・ゾーン」と呼ぶのですが、人間は成長するためにはその「コンフォート・ゾーン」から出て厳しい状況に耐えなければなりません。

     たとえば、バスケの選手として大成するためには地味なシュート練習が必要になります。

     そのとき、耐える力はいかにも「根性」とか「意志力」によって決まって来るようだけれど、じつは必ずしもそうではないということ。

     この「コンフォート・ゾーン」はたとえば真冬のこたつに喩えることができるでしょう。

     ぼくはそれを「こたつ理論」と呼んでいるのですが、つまり欲しいものはこたつの外にあって、それらを手に入れるためにはこたつを出つづけなければならないというわけです。

     しかし、いったんこたつに入ってぬくぬくしてしまうと、その外に出るためにはものすごい力を必要とすることは、皆さんご存知のことだと思います。

     したがって、たしかにここから素直に考えるとこういう理屈になりそうです。「こたつ」の外に出て寒さに耐えることができる人は意思が強い立派な人だ。反対にいつまでもこたつでぬくぬくしている人間は意思が弱いダメ人間である、と。

     ところが、この考え方はやはり一面的なのです。この見方だと、快適な「こたつ(コンフォート・ゾーン)」の外に出て活動するモチベーションの有無を属人的に考えています。

     つまり、人間には、イソップ童話の勤勉なアリと怠惰なキリギリスのように、勤勉なタイプと怠惰なタイプがいる、と。いかにもあたりまえのことのようにも思える。

     ですが、心理学的に見ると、必ずしもそうとはいえないらしい。

     いわゆる「モチベーションの心理学」によると、人間の行動のモチベーションはその生涯で何千回、何万回となくくり返される「学習」の成果が大きいとか。

     つまり、あるアクションを取ったとき、成功や賞賛という「正の報酬」を得られた人は「努力は報われる」と「学習」し、「自分ならできる」というポジティヴなアイデンティティを獲得、そのアイデンティティにもとづいてさらに努力するという好循環が働く。あるアクションで失敗した人はそのまったく逆というわけ。

     ようは意志の強い人と弱い人、勤勉な人と怠け者、アリタイプの人間とキリギリスタイプの人物がいるのではない。すべては人生を通し、何千回、何万回とくり返された「フィードバック・ループ」という名の「学習」の結果である、と考えられるわけです。

     思うに、いわゆる「社会的ひきこもり」はネガティヴな「フィードバック・ループ」が習慣化した最も極端な形だといって良いでしょう。

     「自分には問題を解決できる能力がある」という感覚を「自己効力感」といいますが、ひきこもりの人間はその自己効力感がかぎりなく低下し、ひたすら「自分はダメな人間だ」とか「何の能もないんだ」という極端な「メタ認知」に陥ってそれがアイデンティティになる。

     そしてその結果としてより行動するモチベーションが下がっていくということになっているわけです。

     良く人は習慣の動物だといわれますが、「負の学習」をもたらす「悪い習慣」のくり返しが常態化した結果がひきこもりだともいえるでしょう。

     ぼく自身がそうだからいうのですが、こういうひきこもりに対し「あなたにだってできることはある」などと口先でいってみても、あまり意味がない。なぜなら、体験による「学習」が強烈すぎて、単なる言葉はむなしく響くからです。

     結局のところ、体験は体験によって上書きしていくしかないのではないでしょうか。

     そのために先述のダメ人間ToDoリストに書くような「小さな習慣(ミニ・ハビッツ)」が重要だと思うのですね。

     で、究極的には「生きる」ことが「最小で最優先の習慣」なのではないかとぼくは考えます。「生きている」ことが人生の最大の成果ですよね。

     「顔を洗う」とか「体重計に乗る」といった「小さすぎる習慣」をいちいち確認することはいかにも無意味に思われるかもしれません。だれでも毎日、なかば無意識にやっていることですから。

     しかし、じっさいやってみると、このToDoリストによる確認には意味があることがわかります。少なくともぼくにとっては大きな意味がありました。

     アメリカの心理学者スキナーが提唱した「スモールステップの原理」のように、小さなステップで現状を改善していくことが大切なのだと思います。

     弱小だったイギリスの自転車チームをツール・ド・フランス優勝にまで導いたといわれる1%の改善の積み重ね、「マージナル・ゲイン」も同じことですね。

     わずかな積み重ねが「複利」でたまっていくと、信じられないような大きな効果に至ることがありえるということ。

     これはぼくがバイブルにしている『ベイビーステップ』の主人公エーちゃんのやり方でもあります。

     ひたすら目の前だけを見て少しずつ少しずつ成長していく。そのやり方はいかにもカメの歩みとも見えますが、その実、最速の成長をもたらすのです。

     もちろん、その反対に最初に大きな目標を掲げてそこへ向け邁進する方法もあるでしょう。たとえば『ONE PIECE』のルフィのように。

     まだ何者でもない頃に「海賊王のおれはなる!」と宣言し、少しずつその領域に近づいていくかれを見ていると、大きな夢を掲げることは素晴らしいことのように思われて来ます。

     しかし、よくよく考えてみると、海賊王になることを目ざしているのはべつにルフィだけではないのですよね。

     レースに参加する者はだれもが勝利を目ざしているわけで、大半の海賊が海賊王を目ざしているといっても良いはず。

     ということは、その上で勝敗を分ける条件は「大きな夢を掲げているかどうか」ではないわけです。

     勝利とか成功とは膨大な「スモールステップ」の実践によってたどり着くもの。そして初めに大きな夢を掲げるほど、「圧倒的な才能の違い」といったものに打ちのめされてしまいがちです(いわゆる「グレートネス・ギャップ」)。

     最近、何らかの成功や達成のためには「グリット」というものごとをやり通す力が重要だといわれるようになりました。

     その「グリット」を持続させるためにはやはり「スモールステップ」で成長することが必要なのではないでしょうか。

     塊を小分けにしていくように課題を細かくしていくことを「チャンクダウン」といいますが、ある大きな問題を解決するためにはその「チャンクダウン」と「マージナル・ゲイン」が必要なのです。

     そして、大切なのは「スモールステップ」を日常的に実践し「つづける」ことであり、そのためには「習慣化」が必要になる、と。

     たぶん、この「習慣化」を「意志力」の問題であるかのように考えてしまうとうまくいかないのでしょうね。

     その他にも色々と資料を読み耽ったのですが、「意志力」という概念は非常にあいまいです。

     何度もいいますが、一見すると相対的に意思が強い人間、弱い人間はいるように思えるし、じっさいに遺伝的に強力な「実行機能」を持つ人がいることもわかっているらしいのですが、しかしそれがすべてではないことも「マシュマロ・テスト」などによってわかってきた事実なのです。

     すべての鍵は「習慣化」にある。何もかも毎日の習慣によって決まってきます。

     たしかに「知能指数」や「身体能力」にはそれぞれ大きな遺伝的な格差が存在するでしょう。すべての人が同じだけの潜在能力を持っていて、「才能」なんてものは存在しない、とはとてもいえそうにない。

     ですが、その人のポテンシャルを限界まで引き出すのはやはり「実行機能」によるセルフコントロールの問題なのです。

     また、そのポテンシャルそのものが行動によって変化する可能性があります。知能には成長の余地がなく、あらかじめ決まっているという考え方を「固定的知能観」というのに対し、知能にも変化と成長の余地があるという考え方を「拡張的知能観」といいます。

     で、「拡張的知能観」で自分を捉える人のほうがより早く成長しやすいともいう話もあります。

     ただ、そうやって成長することができても、自分を制御できなければ、どんなに成功しても最後には破滅が待っている。そのことは、スキャンダルで失敗した有名人などを見ていれば歴然としていることでしょう。

     とはいえ、人間は自分を制御し切れないものでもあります。人間が必ずしも合理的な行動を選択するわけではないことは、行動経済学などでも語られている通りことですが、ぼくはそれは必ずしも悪いことではないと思う。

     たしかに諸々の「依存症」のように、まったく自分をコントロールできなくなってしまうことは人生にとって大きなマイナスです。

     ある程度は自分を制御して生きていく必要がある。それはたしか。

     そして、そういう「実行機能強者」がより良い人生を歩みやすいことは「マシュマロ・テスト」の結果を見てもあきらかでしょう。

     しかし、それでは人生において、そのような「成功」や「達成」がすべてなのかといえば、ぼくはそうは考えない。

     およそ世間で流通している「成功哲学」や「自己啓発」は「自分をうまく制御して成功を目ざしましょう」と誘いかけてくるものですが、その価値観はどこか安っぽく薄っぺらいものがある。

     仮に人生の「目標」がカネや地位というわかりやすい成功だとしても、人生の「目的」はカネでも地位でも名誉でもないとぼくは思います。

     ルフィにしても、「海賊王になる」ことは「だれよりも自由に生きる」という目的にたどり着くための目標に過ぎないといっても良いはず。

     「努力」と「成功」だけを良しとする価値観は、どうしても失敗した人に対する差別や蔑みにつながります。

     けれど、人間は単なるプログラムに従って動くロボットではない。人間というあまりに複雑な存在の意志には、どうしても自分の力ではコントロールし切れないなぞの部分が残るはずです。

     ぼくはそれを「魔が差す」という表現から採って、「魔(デーモン)」と呼んでいます。

     京極夏彦の『魍魎の匣』では「魍魎」と呼ばれていましたが、同じような概念だと思います。

     人の心にはつねになぞめいたデーモンが住んでいて、善にせよ、悪にせよ、思いもかけないようなことを囁きかけてくる。それが人間の奥深さではないでしょうか。

     文学にしろ、哲学にしろ、このデーモンの存在を前提としているからこそ意味があるのであって、人間がただしゃにむに自己利益だけを目ざす存在でしかないのなら、そもそもそんなものは必要ないということになると思います。

     ここからいまは亡き立川談志の「業の肯定」という落語論と、『文七元結』における「利他」と「贈与」の話につなげ、ジャック・アタリの「合理的利他主義」や、親鸞聖人の「自力」と「他力」を巡る話に持っていきたいのですが、さすがに長くなってきたのでまたあらためて語ることとします。

     究極的には「良い人生(グッドライフ)」とは何か?というテーマに回帰する話題でしょう。

     次はここら辺をプラトンとかニーチェとか『夜と霧』あたりを参照して語ることとしたいと思います。よろしくお願いします。では。 
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