草原の椅子〈上〉 (幻冬舎文庫)

 羽海野チカ『3月のライオン』、小春日和の展開が続いていますね。主人公である零くんが抱えていた人間的問題はほぼすべて解決できてしまった感じだけれど、この先、いったいどこへ進むんだろう。そもそもこの物語はどこで終わるんだろうか。

 『ハチミツとクローバー』は全10巻で綺麗に幕を閉じたけれど、この話は10巻じゃ終わりそうにない。しかし、そうかといって、あまり長く続くとも考えがたい。ほんとうにいったい、物語はどこへ向かっていて、どこで決着が着くのだろうか。

 少年漫画的に宗谷名人を倒して終わりってことでもなさそうだしなあ。宗谷名人の耳の問題がふたたびクローズアップされる時は来るのだろうか。うーむ。と、思い悩んだりする日々を送っている最近のぼくです。

 いやー、おもしろい漫画が読めるということは素晴らしい。それだけで次回を読めるまで生きていこうという気になるもの。むしろ、いまのぼくにとって生きていくべき理由なんてそれくらいしかないといってもいい。もちろん、それで十分でもあるけれど。

 さて、そういうわけで、今回は「幸福」と「自由」の話。ひとは自由であることを求めるものだ、とはよくいわれることです。ぼく自身、いつもより自由になりたいと望んでいると思います。しかし、それはほんとうでしょうか? ひとは自由を恐れ、自由から逃避しようとするものでもあるのではないでしょうか。

 その証拠に、ひとは自ら自由を捨て、束縛を望むことがあります。良い例が結婚です。どう考えても結婚することによって人間がより自由になるとは思われない。子供が生まれればなおさら不自由になるでしょう。しかし、多くのひとがその不自由を「幸福」だと感じ、またそう語る。なぜでしょう? 幸福とは、より自由であることではないのでしょうか? 

 たぶんそうじゃないんですね。映画『草原の椅子』のクライマックスで、齢50歳にして新しい家族を抱え込むに至った主人公が、「これでもう勝手に死ねなくなった」と語る場面があります。印象的なひと言です。

 主人公はこの決断によってたしかに幸福を手に入れたはずなのですが、それでも、やはり「いつでも死ねる」という自由を失ってしまっている。ひょっとしたら幸福とは、自由を代償にしてしか手に入らないものなのでしょうか?

 あるいはほんとうにそうなのかもしれません。一般的にいってたくさんのものを持っている「リア充」ほど、色々なもので縛られていて不自由なのではないかと思います。たとえば恋人がいるひとは恋人に、家族がいるひとは家族に、仕事があるひとは仕事に、束縛される。

 何も持っていないぼくはそういう意味ではかなり自由です。しかし、どうもあまり幸福ではないような気がします。結局のところ、「自由」と「幸福」とは、対極にある概念なのかもしれません。幸福とはたくさんのものに縛りつけられている状況のことを指す言葉なのかも。

 ひとは自由になればなるほど、幸福感から遠ざかっていくものであるようにも思われます。ぼくは数年前、大好きだった祖母が亡くなったとき、いっきに自由になりました。なぜなら、もう「祖母が亡くなったらどうしよう」と心配する必要がなくなったからです。

 この先、両親が亡くなったらぼくはもっと自由になるでしょう。そうなったら、ぼくが死んだところで気にするひとはほとんどいなくなるわけだから、いつ死んでもかまわなくなるわけです。