ノンタンがんばるもん (すきすきノンタン)

 「学年でビリだったギャルが、1年で偏差値を40あげて日本でトップの私立大学、慶應大学に現役で合格した話」という記事が話題になっているようです。


 まあ、タイトル通りの内容の「ちょっといい話」です。ぼくの性格からして、この手の「いい話」に対してはちょっと「へへん」と思ってしまうところがあるのですが、それはそれとして、今回はこの記事を枕に「努力」について考えてみたいと思います。

 努力。道徳教育的には「とても大切」とされる概念ですが、正直、ぼくにはピンと来ないものでもあります。恐ろしいことに生まれてからいままでろくに努力したことがないからです。

 何を努力と捉えるかにもよるだろうけれど、少なくとも自分の実感としてはいままで「ほんとうによくがんばったなー」と思ったことはただの一度もない。いつも中途半端。常に自分に対し「もうちょっとがんばりましょう」の判子を押している気がします。

 ここ最近は毎日何本か記事を上げてつづけているので、「多少、「がんばる」に近いことをやっているかな……?」という気がしないでもありませんが、でもねー、全然死力を尽くしていないですからね。この程度では「努力」のうちには入らないだろうと思う。

 具体的にはたぶん自分の持っている力の6割から7割くらいしか発揮していないはず。これはべつに「おれはまだ本気を出していないだけ」といいたいのではなく、8割以上出すと持続できないので、このくらいにセーブしているという話です。

 このあいだまで8割5分くらいの力でやっていたんですけれど、やっぱり疲労がたまってズタボロになりましたからね。ええ、1日7本とか記事を書いていた時の話です。10割出すとたぶん1日で倒れるんだろうな、と思います。

 だから、まあ、ある意味、いまの力が「持続できる全力」といえないこともないんだけれど、でもやっぱり6割じゃ「努力している」という実感がない。ぼくはほんとうは、10割とはいわない、9割くらいの力で1年間くらい頑張ってみたいのです。

 まあ、たぶんそれだと体力が続かないんだろうけれど、だから体力づくりのところから初めてがんばってみたいという気分がある。自分がほんとうに空っぽになるまでがんばったなら、いったいどのくらいのことができるんだろう?ということに興味があるのです。

 いままでの人生で比較的がんばった記憶というと、2冊の同人誌を作ったことが挙げられます。これはね、けっこう9割以上くらい出し切った感じがあるんですけれど。ええ、おかげで読みづらいと評判の本が仕上がりました。

 ただ、同人誌は絶対的な分量が少ないんですね。せいぜい文庫1冊程度ですから、1ヶ月もあれば書き上がってしまう。それで、なんかいまひとつ不完全燃焼の気分が残っています。それでも、これがまあ、ぼくの「わりと少しはがんばったかな?」といえる最大の記憶です。ほかのことに関してはほんとうにまったくがんばっていないですから。