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ども。海燕です。
2011年に発表した同人誌『戦場感覚』の全文をこのブロマガで無料公開することにしました。第1章から第12章まで、1日1章ずつ公開していくつもりです。本文の内容は、どうしても気に入らない部分を微修正して改行を付け加えたほかは、同人誌版と変わりません。
この本は「始発駅」から「終着駅」へと至る十二の銀河ステーションを巡りながら「戦場感覚」という概念について考えるという構成になっています。その点、ご了承の上、お読みください。では、とても長いですが、どうぞ。
『戦場感覚』
『戦場感覚』
始発駅「アルデバラン――戦場感覚」
0.出発。
甲高く汽笛が鳴り、車掌がゆっくりと手をふると、星の平原を往く黒い列車は、颯爽と走りはじめる。
銀河列車、出発進行。
1.戦場感覚とは何か。
わたしたちは戦場を生きている。銃弾が飛びかい疫病がはやる最前線で、血をながし泥をすすり戦いつづけている。過酷な日々に心は乱れ、肉体は病む。魂は嗚咽し、神経は狂う。それでも逃亡は許されない。そもそも逃げる場所などない。その戦場は現代社会といい、わたしたちはひとりのこらずそこに住んでいるのだから。
いまから「戦場感覚」の話をしよう。戦場感覚。それは文字通り、自分は戦場に生きているという感覚である。まどろみに似た平和が続くわが国だが、ある種の人々はこの感覚をもって暮らしている。
もちろん、それは本物の兵士の感覚とは異なるだろう。しかし、世界をひとつの戦場と考え、人生を不断の闘争と捉えるなら、どれほど平穏な時代にも戦場感覚の持ち主がいて当然ではないだろうか。
いまこうしているあいだにも、世界各地では無数の「戦い」が続いている。軍隊による戦闘行為ではない。もっと象徴的な意味での「戦い」。本書全編を通じ、わたしはその意味での「戦い」について語るつもりである。どうか飛ばさず読みすすめていただきたい。
さて、本書の内容はすべて上記の「現代社会は戦場である」という事実から演繹されている。事実。そう、わたしにとってこの一文は動かしがたい事実である。あるいは、こう書けば、あなたは失笑していうかもしれない。戦場だと。現代ほど恵まれた時代がないことを知らないのか、きみの戦場はひとりも死者を出さないらしいな、と。
わたしは答える。死者ならいる。およそ年間三万人も、と。この数字は日本の年間自殺者数である。わたしたちの戦場では、兵士は自ら頭を撃つ。そこでは敵味方の区別が定かではないから、最後には自分を撃ちぬくほかなくなるのだ。わたしたちは自分殺しの戦場を生きている。
ただ、早合点しないでほしい。わたしは日本の自殺率の高さ(2010年時点で世界第6位)そのものを問題にしたいわけではないし、政治や経済の問題について語りたいわけでもない。わたしがいまから語ろうとしていることは、必ずしも現代特有の問題ではない。
いまより花やかに見える80年代、90年代も、社会はやはり戦場であった。より正確にいえば、社会を戦場と感じる人々は存在した。かれらは自分が戦場の住人だと「知っている」。知識ではなく、実感で理解している。それが戦場感覚である。
あなたはこの感覚を理解できるだろうか。何か大げさなことをいっているとしか思われない方が大半かもしれない。それでは、あなたは生きていることが辛いと感じたことはないだろうか。特に理由もなく、ただ何となく苦しく、いたたまれなく、消えてしまいたいと思ったことは。もしあるのなら、あなたは戦場感覚を推測できる。戦場感覚とは、つまり日常的にその種の苦悶と戦っている感覚である。
戦場感覚者にとって、世界は楽園ではない。むしろそれは困難にみちた荒野である。かれは楽園を否定しないが、自分自身はどうしようもなくそこから疎外されていると感じている。戦場感覚者とは楽園のアウトサイダーなのだ。
「アウトサイダー」。それはコリン・ウィルソンの著書のタイトルだ。ウィルソンはその本で、サルトル、カミュ、ロレンス、ゴッホ、ニジンスキー、ドストエフスキー、ブレイク、グルジェフといった人々を「アウトサイダー」として並べあげた。
この世界の倫理や常識の外側(アウトサイド)にいる人々、というほどの意味である。そして、ウィルソンは、かれらアウトサイダーは何億という「インサイダー」たちよりはるかに優れた人種なのだと力説した。インサイダーがのんきに眠りこけているとすれば、アウトサイダーはまさに覚醒しているのだと。
ウィルソンのアウトサイダーとわたしがいう戦場感覚者には共通項も多い。しかし、根本的なところが違っている。アウトサイダーが多く孤高の天才であるのに対し、戦場感覚者はときに強い劣等感、自己否定感を抱えているという点である。
なぜなら、かれは世間の人々があたりまえにこなすことがどうしてもできないからだ。たとえば戦場感覚者はときに部屋から一歩外へ出るだけのことにも深刻な恐怖を感じる。いうまでもない、そこが戦場だからだ。戦場感覚者にとっては、時にただあたりまえの日常を生きるだけのことも「戦い」なのだ。
もっとも、必ずしも戦場感覚者がわかりやすい被害体験を抱えているとは限らない。何か明確なスティグマを抱えているものもいるだろうが、そうでないものもいる。そして、何の被害体験もなくても、深刻な「生きづらさ」と戦っているものはみな戦場感覚者である。
そういったものにとっては、たとえば教室に一歩足を踏みいれることがひとつの「戦い」なのだ。戦場感覚者にとって世界は戦場であり、生きることは戦いである。わたしは戦場感覚の根底をなすこの事実を、すべてのルールの大元にあるルールという意味で「グランドルール」と呼ぶことにしたい。
戦場感覚者にとって、グランドルールは世界の最も根本的な理である。グランドルールを骨身にしみて認識するところから、戦場感覚者の人生は始まる。そしてまた、グランドルールからは必然的にひとつのテーマが導きだされる。
即ち、「戦場である世界をどう生き抜くか」。これを、戦場感覚者にとっての究極のテーマという意味で「グランドテーマ」と呼ぼう。戦場感覚的な物語は、自然、このグランドテーマに沿ったものとなる。
本書では乙一、栗本薫、桜庭一樹、虚淵玄といった作家たちの戦場感覚的作品を取り扱う。かれらの作品は、その苛烈さ、容赦のなさが共通している。しかし、それは決して趣味的なものではなく、かれらの戦場感覚から導きだされた必然なのである。
かつて岡崎京子は著書『リバース・エッジ』に一篇の詩を付した。ウィリアム・ギブスン「平坦な戦場で僕らが生き延びること」。本書もまた「平坦な戦場で生き延びること」を巡る本だ。願わくは、本書がひとりでも多くの戦場感覚者の友とならんことを。
2.コギト。
しかし、そう、先走りすぎたかもしれない。まずは何をいっているのかわからないというあなたのために、レッスン1を開始しよう。まず、「あなたに見えている世界はあなただけのものである」と納得してもらいたい。
簡単な話だ。わたしたちは同じものを見るときも、ひとりひとり異なる主観を通しそれを見ているということ。たとえば同じりんごを見るときも、異なる観点で見ているはずである。極論するならわたしたちはそれぞれべつのりんごを見ているといえる。
その意味で、わたしたちは孤独だ。どんなに大勢の仲間といるときもひとり。なぜなら、自分に見えている世界を分けあうことはできないのだから。愛する恋人が何を考え、何を想っているのか、その本当のところは一生わからない。コギト・エルゴ・スム。わたしたちは絶対孤独という牢獄の囚人である。
もうすこしわかりやすい話をしよう。トロンプ・ルイユ(だまし絵)と呼ばれる絵画技法がある。ある一枚の絵が、見方により異なる絵柄に見えてくるというものだ。それはひとの主観の奇妙を思い知らせてくれる。
ある部分を背景として見たときと、人物として見たときでは全く違うものが見えてくるふしぎ。このふしぎが世界そのものにもあてはまる。世界とはひとつのだまし絵なのだ。
ふだんはなかなかそうとは知れないものの、わたしたちの主観は百人百様である。客体はひとつ。しかし、ひとはそこに主観的な「感想」を上書きする。熱烈な信仰者の目に壁のしみが聖者の顔に見えたりすることはその典型だろう。
そう考えると、ひとによってある物語の見え方が違ってくることは必然である。わたしたちが小説や映画で物語を楽しむとき、当然、それぞれ異なる感想が生まれる。しかし、一方でその作品は感想がひとつにまとまるよう計算されており、自然、メジャーな感想とマイナーな感想が生まれる。
たとえば、人魚姫が泡になり消えていく場面の感想は「人魚姫が可哀想」というものが大方を占めるであろう。しかしまた、「人魚姫の生き方は美しい」という感想もありえる。前者は憐憫、後者は讃嘆である。
前者の見方を採る人物にとって、人魚姫の物語はあくまでも悲劇と映る。後者の見方を採る人物にとっては必ずしもそうではない。かれは、たしかに人魚姫は泡になり消えたが、恋に殉じたその生き方は素晴らしい、と捉える。その意味でこの物語は必ずしも悲劇はいえぬ、と。
ここには思想の差異がある。前者にあるものは不幸を哀れむ思想であり、後者は不幸と戦うことを称える思想である。前者は「結果」を見、後者は「過程」に注目する。わたしが本書で取りあげたいのは後者の思想だ。
その「結果」がどうであるかではなく、そこにいたる「過程」をこそ問い、「戦うことそのもの」に価値を見出す思想。それは戦場感覚者の価値観である。
そこには「戦うもの」に対するリスペクトがある。その思想においては、人魚姫は一方的な同情の対象ではない。同じ「戦い」を戦う同志である。彼女は敗れたかもしれない。しかし、その生涯そのものは崇高であった。戦場感覚者はそう考える。
これは社会の結果主義と真っ向から対立する思想だ。現代社会において、わたしたちは何より「結果」を求められる。ある意味で公正なことである。畢竟、「過程」など計測しようがないのだから。結果主義は正しい。
しかし、わたしたちはその「正しさ」に疲れてはいないだろうか。結果主義の行き着くところは順位表である。わたしたちの人生は順位表に縛られている。わたしたちは「競争」こそ生の本質だと錯覚してすらいる。より座り心地の良い椅子、それこそが人生だ、と。
わたしはその価値に「否」を突きつけよう。人生とは座り心地の良い椅子ではない。人生とは、果てしなく続く歩みそのものである、と。
かつて順位表を人間の存在価値そのものにまであてはめようとする学問が存在した。悪名高き優生学である。優生学は生命の価値を優生と劣生に分け、劣生とされた生命を社会から排除しようとした。
その思想がかのナチスドイツによる大量虐殺の思想的背景となったことは有名である。いまではだれもナチスの暴挙を支持しないことだろう。しかし、どうだろう、わたしたちの内面には、いまなおこの優生思想が根を張っていはしないか。
あなたはいうかもしれない。わたしは何ら人種偏見を抱いてはいないし、遺伝学の知識もある。わたしにとって優生学など過去の悪夢であるに過ぎない、と。本当にそうだろうか。
それではなぜ、わたしたちは大半が自分の子供に五体満足であってほしいと願っているのか。親として、あまりにも当然の願いではある。しかし、この祈りはじかに優生思想に繋がっている。
自分の子供に障碍があってほしくないと願うことは、この世に障碍者がいないほうが良いと願うことである。ここには「内なる優生思想」がある。内なる優生思想はわたしたちに優しく囁く。
劣生なる「生」は、周辺に多大なる迷惑を及ぼすばかりか、本人にとっても不幸である。わたしたちは本人のためにもかれらの人生を静かに閉ざしてやるべきなのだ。むろん既に生きている人間を殺すことはナチスの悪夢の再現だ。だからより良い方法を用意した。生まれてくる前に「生」を断ってしまうのだ。それなら、不幸な人生を未然に予防できるばかりか、倫理的にも何ら問題はないではないか、と。
このようにして選択的中絶のシステムが生まれた。選択的中絶の「選択」とは、遺伝子の選択を指す。現在、生まれてくるまえの子供を遺伝子調査し、中絶することは一般に行われている。このシステムによってわが子を中絶した両親は罪悪感すら抱かずに済むかもしれない。
嬰児を殺したわけではなく、単に受精卵を潰しただけなのだから。ひとつの科学の夢。いずれ遺伝子調査の技術がいまより進歩したなら、すべての先天的な障碍を未然に調査し中絶することが可能になるかもしれない。
それはすべての人間が「健常」な肉体と精神を持つ社会へと繋がる。それは楽園だろうか。一面ではそうである。しかし、それは「障碍者」と呼ばれる人々の「生」を否定する優生思想的な社会でもある。
障碍者などいないほうがいいに決まっているではないか、とあなたはいうかもしれない。本人にとっても、その「生」は苦痛であるに違いないのだから、と。しかし、それはやはり「健常者」の思いあがりである。
もちろん、すべての「障碍者」が幸福な人生を送っているはずもないが、それは「健常者」であっても同じことだ。障碍と不幸を等号で結ぶ根拠はない。仮にすべての「障碍者」が不幸な人生を歩まざるをえないとするなら、それは社会の責任だろう。
3.ヒューマンエンハンスメント。
一方、魔術的な現代社会においては中絶以外の方法で「生」を曲げる方法も存在する。ヒューマンエンハンスメント(人体強化)である。
エンハンスメントとは、先天的、あるいは後天的に人間存在を強化しその能力を増進させようとする方法を指す。たとえば薬物投与やサイボーグ化による能力増強はエンハンスメントにあたる。
エンハンスメントを否定することはむずかしい。たとえば、わたしがふだんかけている眼鏡などもある種のサイボーグ化であり、エンハンスメントである。視力回復、増進をもたらすレーシック手術もエンハンスメントにあたるだろう。エンハンスメントは既に社会に深く入り込んでおり、わたしたちはもはやそれを放棄できない。
エンハンスメントの魅力を、たとえば森薫の漫画『エマ』に見ることができる。作中、主人公エマが初めて眼鏡をかける場面がある。それまでぼやけていたエマの視界は、一気に鮮明に変わる。見える! その感動は彼女の人生を変革する。なんぴともこのエマの感動を否定できないだろう。
しかし、だからといってエンハンスメントを全面的に受け入れることはできない。たとえばマラソンレースを1時間で走り切る人間、円周率を百万桁まで暗唱できる人間、そういったエンハンスメントに、あなたは何か不気味なものを感じないだろうか。そこには、何かが間違えているのではないか、と思わせるものがある。
このエンハンスメントの問題について、昨今、日本でも有名になったかのマイケル・サンデルが本を著している。その本『完全な人間を目指さなくて良い理由』のなかで、サンデルは、エンハンスメントは生命の被贈与性を損なうと記している。
ひとにとって新たに生まれてくる生命はすべて「贈り物」であるべきであり、それを好き勝手に改造することは何かしらの道徳的退廃をもたらす。わたしたちは「招かれざるものへの寛大さ」を保持するべきなのだ、と。
宗教的に過ぎる信条だと思われるだろうか。しかし、ここには何か真実の響きがある。生の被贈与性。それこそ生命の本質ではないか。
ある意味でそれはわたしたちの「生」の実感から最も遠い概念であるかもしれない。わたしたちは「生」を操作可能なものとして扱うことに慣れている。が、それはわたしたちの「生」を根底のところで損なっているとも思うのだ。
エンハンスメントはスポーツの世界にも忍び寄っている。最もわかりやすい例はドーピングである。しかし、そもそもドーピングの何が悪いのだろうか。肉体の健康を損なうことか。それなら将来、無害な薬物が開発されたならドーピングを受け入れるべきなのか。
それができないとしたら、なぜだろう。ドーピングは競技の公正を損なうという見方もある。それなら全選手が「公平に」ドーピングを行うようになったらどうだろう。あるいは通常のオリンピックとはべつに「ドーピングピック」を開いたら。
それは観客の興味を集めるかもしれない。そこには100メートルを8秒で駆け抜ける選手、500キロのバーベルを持ち上げる選手などが登場するだろう。わたしたちは人類の常識を絶した奇跡の目撃者となる――しばらくして見飽きるまでは。
そう、それはたしかにおもしろい見世物ではあるに違いない。しかし、それはスポーツの本質を致命的に損なっている。それはけっきょく見世物にとどまるだろう。なぜなら、ある選手が薬物を用いて素晴らしい成果を収めたとしても、素晴らしいのは薬物であって、選手ではないことはあきらかだからである。
それはスポーツとはべつの概念として――たとえば、最新強化薬物の品評会として――意味を持つかもしれないが、少なくとも観衆に感動を与えるとは考えがたい。わたしたち人間は最速の選手ですらチーターより鈍足だが、だれもそれを恥ずべきこととは思わない。スポーツの本質はそこにはないのだ。
わたしたちがスポーツに感動するのは、そこに積みあげられた時間を見るからである。わたしたちはある選手が時速40キロで走るから感動するわけではない。そうではなく、その選手が、時速40キロで走るにいたるまで自分を鍛えあげた事実に感動するのである。
いわば、わたしたちは金メダルという「結果」に圧縮された「過程」を見ている。そうでなければドーピングもサイボーグ手術もたいした問題ではないはずではないか。
そしてまた、人生そのもの、「戦い」そのものを評価し、敬意を払う戦場感覚的価値観から見れば、エンハンスメントは無意味である。それは「結果」を改善する(時速200キロの球を投げる投手を作り出す)かもしれない。
しかし、戦場感覚的価値観は「結果」を重視しない。それはあくまでも生きることそのものにこそ価値を見出す。そこには「順位表」はない。ランキングもヒエラルキーもない。
わたしたちの社会には、たぐいまれな天才もいる。能なしの凡人もいる。「健常者」もいる。「障碍者」もいる。戦場感覚者の価値感は、かれらの「生」そのもの、「戦い」そのものに価値を見出す。その価値観では、たとえばホームレスの若者は社会の敗残者というより、より厳しい状況でタフに生き抜いている勇者として見えてくるだろう。
最後に、そこから導きだされるわたしの信仰について話しておきたい。それは、すべての子供たちは祝福されて生まれてくるべきだという信仰である。
いま、ある子供たちは涙と笑いに包まれて生まれてくるが、べつの子供たちを迎えるのは哀しげな沈黙である。が、本来、すべての「いのち」は祝福されていてしかるべきではないだろうか。
新しく生まれてくる「いのち」、どこか遠いところからこの世界に呼ばれてやってきた「いのち」に対し、わたしは呼びかける。ようこそ、この世界へ。ようこそ、歓迎する。あるいはきみの「生」は苦しみとともに出発するかもしれないが、それだけで終わることはないだろう。
たとえきみが生涯、自分の足で立ち上がることがないとしても、大丈夫、きみを支えようとする人々はたくさんいる。だから何も心配はいらない。安心してこちらへおいで。ようこそ、この美しき地上へ。ようこそ、この豊かな世界へ。何度でもいおう。ようこそ、ようこそ、と。
わたしは信じる。いかなる重い運命を背負った子供も、あたたかな祝福の声に包まれて生まれてくる資格があると。それがわたしの信仰である。
わたしは、信じる。
4.「蛇」との戦い。
しかし、この「信仰」に対してはすぐさま反論が返ってくることが予想される。それは綺麗事だ、なるほど「内なる優生思想」は悪であるかもしれない。しかし、それはいわば必要悪であって、わがもの顔で得々と理想論を語るお前にしても、現実に障害を持った子供ができたとき、その事実から逃避しないか怪しいものだ。お前の理論はしょせん机上の空論であるに過ぎない、と。
的確な反論である。わたしはいくらでも正論を述べることができるが、いざそれが現実になれば、狼狽するに違いない。わたしは「わが子は障碍児でも健常児でもどちらでもかまわない」と言い切れるほど立派な人物ではない。
内なる優生思想は紛れもなくわたしの心も蝕んでいる。しかし、それでもなお、わたしは「内なる優生思想」に屈服はしない。仮にわたしのパートナーが妊娠したとしたら、そのとき、わたしの「戦い」は始まるだろう。
わたしは「そうはいってもやはり子供は健常であるほうが良い」と考える自分と直面するかもしれない。それは「わたしの内なる蛇」の誘惑の声である。蛇はわたしの耳元で囁く。
障害児を世話することになったら、どれだけ手間がかかると思うのだ。それにお前はほんとうにそんな子供を愛せるのか。さあ、偽善的な道徳など捨ててしまえ。大人になって現実を見るのだ、と。
はたして蛇の囁きを拒むことができるかどうか、それはそのときになってみなければわからない。しかし、ひとついえることがある。わたしは弱々しくも戦うだろう、ということだ。
内なる蛇とは、むろん自分自身のことである。わたしの心の弱さや楽をしたいと思う気持ちを仮に「蛇」と呼んでいるに過ぎない。したがって蛇との戦いは「葛藤」と呼ぶべきだ。
非情な現実を前にして、わたしは悩み、迷い、葛藤することだろう。そのプロセスが、即ち「戦い」である。わたしの「戦い」は孤独だ。なぜなら、それはわたしの内面で起こる「戦い」だからである。
わたしはむろんパートナーと相談するだろう。あるいは両親や友人にも意見を求めるだろう。しかし、かれらがわたしの「戦い」を代わりに戦ってくれるわけではない。
わたしはひとり、自分自身と戦わなければならない。わたしの内なる蛇は強力だ。それはさまざまな手段を用いてわたしを誘惑してくる。わたしは弱い。あるいは蛇の誘惑に敗れそうになるかもしれない。
そのとき、何がわたしを助けてくれるだろう。それはやはり、同じような「戦い」を戦ってきた先達たちの存在にほかならない。わたしはただひとりわたしの内なる蛇と戦っているが、しかし、同じように自分のなかの蛇と戦った人々がいる。その事実は、わたしを勇気づけてくれるだろう。
そしてまた、わたしがそうやって弱々しくも戦いつづけることが、遠くだれかを励ますことに繋がるかもしれない。そうやって、わたしたちの「戦い」は広がってゆく。戦場感覚とは、この「どこかに同じ「戦い」を戦っているひとがいる」という実感のことでもある。
ここであげた「内なる優生思想」との戦いは一例に過ぎない。わたしたちは人生の様々な局面で「内なる蛇」や「外なるシステム」と戦うことになる。それを戦いと実感している人間が即ち戦場感覚者である、といういい方もできるだろう。
わたしたちはみな、戦場に生きている。これは、世界のグランドルールである。一方で、あるひとはその戦場を楽園と思い、またあるひとは煉獄と認識する。そして、かれらにとっては、それはじっさいにその通りのものであるのかもしれない。
しかし、わたしは世界を戦場と捉える。そしてそういうもの人々の「戦い」の話をしようと思う。かれらの敵はときに「蛇」であり、ときに「システム」である。
次章以降では、さまざまな局面での「戦い」について語ることになるだろう。
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