咲ーSakiー 1 (ヤングガンガンコミックス)

 昨夜、敷居さん(@sikii_j )やレスター伯(@LeicesterP)たちとUstreamで話したことが凄くおもしろかったので忘れないうちにまとめておく。つまり『咲』二次創作の話で、『咲』二次創作小説(SS)の世界においては、「神」である作者小林立の下す作品をどこまでも貪り尽くすという方向で進歩が進んでいるという話だった。

 伯爵によると、たとえば『アイドルマスター』の二次創作世界と『咲』のそれとではまったく違っているのだという。つまり、『アイマス』二次創作ではあまり原作のイメージからかけ離れたキャラクターに対しては、たとえば「これは雪歩ではない」といった批判が出てくる。

 が、『咲』二次創作ではそういった意見は少なく、出てくるとしても「キャラクターにそういわせる」という形を採るのだという。『咲』と『アイマス』では二次創作の自由さに決定的な落差があるのだ。

 また、『咲』二次創作はたとえば『マリア様がみてる』二次創作などとも違っているという話だ。つまり、『マリみて』二次創作においては、「正統」であるカップリングが既に決まってしまっている。いわばキャラクターがユニット化している。

 これに対して『咲』二次創作においてはひとりひとりのキャラクターが(何らかの必殺技を持つなどの個性によって)独立している。したがって、非常に「組み合わせやすい」のだとか。

 この話を聞いてぼくは女性向け二次創作で花ざかりの『黒子のバスケ』のことを思い出したが、関係があるのかどうかはよくわからない。ただ、ひとつ思ったのはこういうことだ。

 なぜ、女性向けであれ男性向けであれ、二次創作においてはこうも同性愛カップリングが好まれるのか。複数の理由があるだろうが、ひとつには先程もふれた「カップリングの自由度」の問題なのではないだろうか。

 つまり、あるキャラとあるキャラを掛け合わせるとき、それが異性愛関係であるとどうしても「作中の正統カップリング」にひきずられてしまう。たとえば『涼宮ハルヒの憂鬱』であったならハルヒとキョンをくっつけるのが正統であるという圧力が生まれる。それがカップリングの自由さに制限をかけ、「よどみ」を生み出すのではないか。

 それに対して、同性愛関係はすべて非正統だから、どうとでも掛け合わせることができる。その自由さが好まれているのではないだろうか。