天翔る

 舞台は北海道。少女と馬の物語。と、こう書いたならもう、ははあ、とうなずかれる方もいらっしゃるかもしれない。村山由佳は過去にも広漠たる大自然を背景にした小説をいくつか書いているからだ。またあの手の作品か、と早合点する向きはあるだろう。

 しかし、小説はすべて、ひとつひとつが独立した生命体である。同じ作家から生まれた作品は、たしかに兄弟のようによく似ているものもあるが、しかしなお「兄弟のように別人」なのだ。ぼくたちは初めて出逢うひとを見る想いで新作を読まなければならない。

 じっさい、これはいままでの村山の作品とは似て非なる物語だ。『天翔る』。印象的な表題を付けられたこの物語は、少女とある馬の出逢いから始まる。

 そして少女は幾匹、幾人もの馬や人間との出逢いを通じてしだいに成長してゆく。成長。この言葉は何を意味しているのだろう。少しずつ人格が陶冶されていくことだろうか。

 そうかもしれない。ただ、ぼくは思うのだ。成長とは、単にパーソナリティがまろやかになるということではなく、ひとが「高み」へと駆け上がることを意味しているのではないか、と。

 そう、ぼくは時に思わずにはいられない。人間とは何と醜怪な生き物だろうと。ひとは妬み、怨み、憎しみ、ひとの足をひっぱり、ひとを蹴落とそうとし、意地悪をしては自分は悪くないと考える。

 そうかと思えば自分だけが正しいと思い込み、ひとを足蹴にし、ののしり、踏みにじり、殺しさ謁する。人間はどこまでも愚かしくも罪深い。何も他人のことではない。皆、ぼく自身が抱える醜さだ。

 だが一方ではそれだけがひとの本質ではない。ひとはそういった自分自身の弱さ、愚かさ、醜さを超越し、「高み」を目ざす存在でもある。

 「高み」。「天翔る」というタイトルからもわかるように、この小説の主人公もまた、その場所を目ざすひとりである。彼女は馬に乗ることによって、その天性を高めてゆく。

 実に100キロ以上の距離を走破するエンデュランスと呼ばれる競技が彼女の前に表れる。そして始まる刻苦の日々。少しでも自分の資質を開花させるためには、きびしい修行がなければならない。少女の貴重な天稟は、試練に晒されることなしに花ひらきはしないのだ。

 それと並行していくつもの哀しい出来事が彼女を襲う。世界はなんと非情で残酷な場所なのだろう。彼女はひとりだ。だれもその孤独を分かちあうことはできない。

 しかし、その哀しみが深ければ深いほど、待ち受ける歓びもまた大きい。過酷な競技を通し、少女は真の充実を覚えていく。