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映画を観に行くことは、平凡な日常の一部であるのと同時に、非日常的で特別な出来事でもある。観客たちは劇場の席に座り、くらやみに沈んでいきながら、あたりまえの日常から切り離され、物語と映像の世界へ旅立つのだ。
『言の葉の庭』の場合、舞台となっているのは現実世界の新宿だが、その美しくも繊細な情景描写が生み出すセンス・オブ・ワンダーはまさにひとつの異世界。ぼくは一時間弱の上映時間のあいだ、雨の新宿という「架空の世界」を楽しんだ。素晴らしい。
新海誠はいうまでもなく才能あふれる映像作家である。しかし、格別のストーリーテラーという印象はない。その破格の才能は主に華麗な映像空間を形づくることに偏っていて、お話そのものが特別に面白いという印象はなかった。
じっさい、前作『星を追う子ども』は新海誠唯一の大作でありながら賛否両論の出来だった。
しかし、『言の葉の庭』の物語は悪くない。ボーイ・ミーツ・ウーマン。靴作りを目ざすひとりの少年が、雨の新宿御苑(をモデルにした架空の公園)で、ひとりの女性と出逢い、惹かれ、恋をし、そして想いを伝えるまでを、新海誠にしかできない細やかなタッチで描いている。
たしかに少々、少年にとって都合のいいストーリーという気はしなくもない。少年にとっては「年上のあこがれの女性との奇跡のような出逢い」であっても、その女性のほうから見れば、そういう甘やかな展開ではありえないのだから。
そういう意味では、男性主観的な物語といえるかもしれない。しかし、いままで以上に緻密に組み上げられた映像世界そのものは、観るひとを選ばない。
各登場人物たちの内心をナレーションで綴りつつ、写実的に描かれた風景で魅せていくやり方は、デビュー前の作品から変わっていないが、あいかわらず洗練されている。
ぼくはこのひとの映画を『ほしのこえ』からリアルタイムで追いかけているのだけれど、やはり「たしかに息づいている動的な風景」をアニメーションの形で見せる能力は無二のものがあると思う。
新海誠の目に見える世界は、凡人の目に映るそれとはまったく違ってでもいるのだろうか。かれが映像にして見せてくれる日常世界は、あまりにつややかでふしぎな魅力に充ちている。あたかもそれは現実の風景であるのと同時に、映画のなかを闊歩する人々の心象世界でもあるかのようだ。
今回、新海は「雨」という表現にこだわっている。空から降りそそぐ水で覆われた都会の風景は、まるでひとつのアクアリウム。
あたかも長谷川等伯の松林図屏風がそのままに動き出したかのような雨の表現は、きわめて湿度が高い日本の住人ならではの表現という気がする。
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コメント
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海燕さん、こんばんは。
今作は海燕さんの言うとおり、かなり後味が良かったですね。今までの主人公(男性キャラ)が、静かに肩に手を置いて「まァ、飲めよ・・・」と言いたくなったのに対して、今回はドンと背中を押して「行けっ!」と言ってあげたくなりました。彼が自作の靴を彼女に渡せられなかったのは残念ですが、「将来会いに行って渡すのだろう」と思うと、微笑ましい気分になります。
背景美術は相変わらず神がかっていましたね。私が新海作品を鑑賞する目的の半分は、背景を見るためだったりします。