〈リア充〉幻想―真実があるということの思い込み

 日は昇り、日は沈む。どんな堅牢な社会システムも「時」の絶えまない蚕食を免れることはできず、いつかは酸化し崩壊してゆく。ぼくたちが生きるこの日本というシステムもいま、ゆっくり衰退の道を進んでいるように見える。

 かつて偉大なローマ帝国や大英帝国が没落したように、日本もまた沈んでゆくのだろうか。驕れる者は久しからず 。ただ春の夜の夢の如し。『平家物語』の一節はいまなお真理を表しているようだ。それでは、ぼくたちはこの衰退社会でどのように生きていけばいいのだろう。

 もちろん、ぼくはその問いに対する「正解」を用意していない。答えはひとつではありえない。一億人が一億通りのやり方を見つけ出すしかないだろう。ただ、ひとついえることは、経済的に没落するからといって即座に社会全体が不幸になっていくとは限らないということだ。

 むしろこれからの日本は高度経済成長時代やバブル時代に比べても豊かな可能性を秘めている。それはがむしゃらな「成長」や「進歩」という幻想に突き動かされる社会から、いつまでも続く穏やかな「日常」を充実させる社会への転換という可能性だ。

 もう、ぼくたちの「未来」は輝いていないかもしれない。社会そのものが根本的に変わってゆく夢を見ることはむずかしくなってきている。しかし、そのかわり、社会を支えるディテールはかぎりなく洗練されてゆくだろう。

 バブル時代はたしかに豊かな時代だったかもしれないが、個人はパソコンひとつ、スマホひとつ持っていなかった。それに比べて、いまのぼくたちの生活の何と豊かになっていることなのだろう。

 もちろん一律に豊かになったわけではないが、この文章を読んでいるひとは少なくともインターネットを使える環境にいるわけだ。いまではあたりまえになったこのネットを通して繋がりあう生き方も、ほんの何十年か前には存在しなかったものなのだ。その意味を考えると、必ずしもバブル時代が良かったとはいえなくなるのではないだろうか。

 個人的に感じるのは、最近、コンビニエンスストアで売っているスイーツが異様においしくなってきているということだ。昔は絶対にここまでおいしくはなかった。さりげないところで生活水準は上がっている。

 もちろんそこにはマイナス面もあるには違いないが、とにかく安くおいしいものを食べられるということは素晴らしい。こうなったらこの衰退社会で充実した生活を生活を味わいつくすしかない。

 「リア充」なんて言葉にこだわる必要はまったくない。狭く「リアル」と呼ばれる領域はもはやほんとうの意味での「リアル」の一部であるに過ぎない。どこまでも狭い「リアル」にこだわることは、いまなおバブルの夢に酔う時代おくれの価値観だ。