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飢えている。枯れ山をさまよう病犬のように求めている。雪原をうろつく狐狼のように探している。何がそんなに欲しいのか。未来が。いまとは違う未来が欲しい。もっと良くなりたい。もっと立派な人物に、素晴らしい人間になりたいと思えてならない。ぼくは心にそんな飢餓を抱えている。
どうしてそんなふうに思うのかわからない。おそらく心のどこかに穴が空いていて、その穴を埋めようと尽力せずにはいられないだろう。しかしその穴は深く暗く、いくら土を注いでも埋まらない。だからぼくはいまも飢えている。
そういう自分を不幸せとは毫も思わないが、時折りその生き方に疲れることがある。そんなときはちいさくため息を吐き、考える。どうすればこの穴は埋まるのだろう。そもそも埋めることができる穴なのだろうか。あるいは一生涯、この穴に土を注いで生きるしかないのか。
それはやはりいかにも不毛な人生であるように思える。ひとがいう「平穏」だとか「充足」といったものとはあまり縁がありそうにない。仮にある一時、満足したとしても、次の瞬間にはまたより良い未来を求めて駆け出さずにはいられないのだから。
飢えている。渇いている。欲望している。何がそんなに欲しくてたまらないのか、ほんとうはもう自分でもわからないのかもしれない。魂のどこか大切なところが傷ついて欠落しているという思い。決して失ってはならない大切な何かを失くしてしまったという気もち。それがぼくに走れ、と告げる。
その命令に従わないと不安でたまらないのでぼくは走る。しかしそうしながら思うのだ。こうして走りつづけて、いつかどこかへたどり着くことがあるのだろうか。ただ走りつづけ、いつかその道程に斃れる、それが自分の運命なのだろうか。それはあまりにむなしい一生であるようにも感じられ、だからぼくは次第に疲れてゆく。
生きることに疲れ、走ることに倦み、しばらく休みたいと思う。しかし、ぼくのなかの強迫観念はそうして休んでいることを許さない。休めば休むほど不安になるのだ。だからまた走りだす。その繰り返しがぼくの人生だった。これからもそうなのだろうか。そしてじっさいに少しでもまともな人間になれているのだろうか。前進しているつもりで後退しているのでは。真実はわからない。ただ「命令」に従うばかり。走れ。走れ。走れ!
一方、ぼくが否定する「いま」に満たされているように見えるひともいる。かれらはぼくが感じる不安を持っていないようだ。かれらは「前進」だとか「後退」だとかいうことをあまり気にしていないようにも思える。正しい意味での「リア充」だ。
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不幸に見える人はなにかにとらわれてみえて、
幸せな人はなにもきにしていないようにみえます。
あの丘の向こうには何があるんだろう。