真夜中の天使1: 1

 先日、電子書籍で栗本薫『真夜中の天使』を買いなおし、ちびちびと読み返してみました。内容的にも色々語るところはあるのですが、ぼくとしてはそれ以上に重要なのは文体。ああ、ぼくはこのひとの文章に影響を受けているんだなあ、としみじみ思いましたね。

 憧れて、追いかけて、追いつけず挫折して、それでももういちど立ち上がって追いすがって、ということを繰りかえした結果、いまのぼくの文体があります。ぼくが「シンプル・イズ・ベター」と悟りながらも、いまひとつ文章を簡潔に整理しきれない理由はこのひとの、簡潔とは程遠い文体に幻惑されているからです。

 ほんとうは栗本さんも簡潔な文章を書こうと思えば書けるんですよ。いくつかの作品がそれを証明してはいる。しかし、最初期の、趣味に走りまくった作品では、ひたすらに装飾にこだわり、華麗な雰囲気をかもし出そうとしている。

 「まずは簡潔に」「無駄を省け」という文章の原理原則からすると苦笑いものの文体ではあるのですが、しかしじっさいに読んでいて圧倒的に気持ちいい! まあ、ここらへんは趣味の問題であるのかもしれず、万人が酔いしれるかといえばそんなことはないのでしょうが、少なくともぼくの目には非常に快楽的に見えるスタイルなのです。

 やっぱりね、こうでなくちゃね、と思わせられるものがある。じっさいには栗本さんもこのあとはこれよりは簡潔な方向に舵取りをしていくのだけれど、まじりけのない「原液」だけに初期作品の濃密さはくらくらするようなところがある。

 まあ、いくら説明してもわかってもらえないと思うので、主人公今西良が物語に登場する一場面を引用してみましょう。

 サロメだ、といつも滝は思うのだ。それとも、バビロンの、マスカラで顔をくまどった大淫婦、月の女神アシュタルテー、金の冠とかずら、細い少女のようなからだを金で飾ったトゥト・アンク・アモン、或は頽唐期ローマの太陽皇帝、プリアポスの神殿でおどり、すいかずらをからだにまきつけ、十八歳で叛乱軍の刃にかかったヘリオガヴァルス、そうした、〈見られるため〉にあり、ひとびとの驚嘆と賛美によっていよいよ美しく光をはなち磨かれてゆく、傲岸で可憐ななかば狂った、日常の時間の耐ええぬようなふてぶてしい白い生き物。その美に目をひかれるものすべてに、ありえぬような禁断の妖美な世界の夢を見させる魔法使い、錬金術師。日本でどのアイドル・スターよりも増して気狂いじみたグルーピーを持っている、〈ジョニー〉今村良。

 これ、これ、これ(笑)。この、常識で考えたらひどい悪文なのに、くり返しのリズムによってなんとも異様な陶酔的な雰囲気をかもし出す形容詞過多の文章! これを書きたいわけですよ。この引用箇所には澁澤龍彦の影響が露骨に出ていますね。若いね。