弱いなら弱いままで。
Twitterで大塚英志さんのこういう文章を教えてもらった。
http://kawango.hatenablog.com/entry/2013/01/18/084457
大塚さんの昔の生徒だったナベタくん(仮名)というひとが、カメラひとつ持ってあちこちの選挙事務所を訪れ、そのようすを撮影していたという話である。大塚さんは、ナベタくんのこの活動を称賛しつつ綴っている。
ぼくもナベタくんのようなひとは好きだ。かれの活動には、利害損得が絡まない行動のみが持つ美しさのようなものがあるように思う。何ひとつ自分の利益にはならないのに、そしてまた自分自身がひとの救いを必要としているような立場なのに、だれかの利益になるかもしれないというだけの理由で動く。こういうひとは大好きだ。
しかし、ぼくがこの文章を読んで第一に思ったことは、ぼくはナベタくんにはなれないということだった。この文章のなかのナベタくんの行動から感じ取れるような純粋さを、ぼくは持っていないからだ。
文中に、ナベタくんが名刺の肩書きをどうするか迷ったあげく「市民」と書くところがある。ぼくなら躊躇なく「Webジャーナリスト」なりなんなりと書くだろう。ナベタくんが考えるように、その時点でどこか原理原則から外れてしまうのだが、それでもぼくならそうする。そのほうが有効だと思うからだ。
つまり、ぼくはそっちのほうがいいと思ったらいくらか汚い手を使うことに躊躇しないのだ。ナベタくんほど心が綺麗ではないのである。自分のそんな薄汚さを、ぼくはちょっと残念に思って入る。情けないとも感じる。
ただ、心の美しさは、生まれつき決まっているとまではいわないけれど、物心ついてからではどうにもならない一面もあると思う。爆笑問題の太田光がなにかのエッセイで書いていたように、線路に落ちたひとを助けるためそこに飛び降りられるような純粋さ、それは努力や訓練では身につけることができないものなのではないか。
ちょっと考えて、安全を確認してから飛び降りられるひとならいるだろう。そしてそういうひとのほうがまともで賢いともいえるだろう。しかし、ひとが落ちたと思ったその瞬間に、何のためらいもなく飛び降りられるような勇気、誠実さ、純粋さ、それはなまじの賢さより美しい。
これも太田が書いていたことだが、文学者でいえば宮沢賢治はあきらかにその種の純粋さを持っていたひとだった。その反対に太宰治にはそういうところがまるでなかった。
太宰の不幸は自分で自分の心が美しくないことを知っていたところにある。かれは自分の弱さ、醜さを克明に描きつつ、彼岸にいる美しいひとに憧れた。その成果がたとえば「駈込み訴え」のような名作になった。
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