パロの暗黒 (ハヤカワ文庫 JA ク 1-131)



 きょうは『グイン・サーガ』の「本編」、数年ぶりの新刊の発売日です。もちろん、栗本薫さんは既に泉下のひととなっているので、彼女に代わり、五代ゆうさんが執筆しています。

 『グイン・サーガ』のいち愛読者として、この続刊には複雑な想いがあるのですが、まあ、余計なことを縷々書き綴るのはやめておきましょう。

 そのかわり、ぼくが8年ほど前に『グイン・サーガ』外伝20巻に書き下ろした解説をここに掲載することにしました。

 なつかしいですね。いまからみると色々と直したいところも多い文章ですが、やはり力が入っています。それもそのはずです。ぼくはこの文章を30回は読み返して推敲したのですから。

 読んでいただければ、いまとは微妙に文体が異なっていることがおわかりになるかと思います。『グイン・サーガ』をご存じない方も、ご一読いただければ幸いです。



 あとにもさきにも二度とないことだが、一日で五冊の〈グイン・サーガ〉を読みあげてしまった経験がある。たしか第三十一巻『ヤーンの日』から第三十五巻『神の手』に至る五冊だったと思う。仮面の恋を過ぎ、赤い街道の盗賊を過ぎ、サイロンでグインが黒龍将軍を命じられる名場面も過ぎて、イシュトヴァーンの国盗りへと物語が向かいはじめたあたりだ。

 そのときはまだ健在だった祖父の家で、ただひたすらに読みすすめた。しあわせだった。その頃、僕が本の世界に求めていたものすべてがそこにはあったのだ。それから随分と時が過ぎたが、〈グイン・サーガ〉はいつも僕のとなりにあった。たぶんこの味気ない現実世界に次いで、長い時間を過ごした世界なのではないかと思う。

 本書『ふりむかない男』は、その〈グイン・サーガ〉の外伝第二十巻であり、同時に名探偵アルド・ナリスがさまざまな怪事件に挑む〈アルド・ナリスの事件簿〉の第二作目でもある。いわゆる安楽椅子探偵もので、物語はほとんどナリスの自室から出ない。長大な〈グイン・サーガ〉のなかでも、きわめつきの異色作といえるだろう。

 しかしまあ、推理小説についてあまりくわしく語ってしまうのも差し障りがある。ここからは、本作についての言及は避け、〈グイン・サーガ〉全体について話していくことにしよう。

 さて、いまさらいうまでもないことだが、〈グイン・サーガ〉の最大の特色は、世界一といわれるその長さにある。作家/批評家の笠井潔は、「読者の支持が続く限り、無限に長大化しうる」超長編作品を、従来の大河小説と区別して、大海小説と読んだ(『物語の世紀末』)。〈グイン・サーガ〉はその代表作といえる。

 この壮麗な大伽藍を築くにあたって、栗本薫は、そこに娯楽小説を構成するありとあらゆる要素を詰め込んだ。たしかにこの小説はヒロイック・ファンタジーである。しかし、それと同時に、ピカレスク・ロマンであり、陰謀劇であり、歴史絵巻であり、過程小説であり、恋愛物語でもあるのだ。アラビアン・ナイトさながら、さまざまな要素が支えあい、絡まりあう万華鏡の世界、それが〈グイン・サーガ〉だ。

 その中心にいるのがわがグインであることはまちがいない。しかし、「実は〈グイン・サーガ〉というのは、グインそのものは、案外出番は少ない」(『幽霊島の戦士』解説より)。膨大な数の「脇役」たちが絡みあうからこその〈グイン・サーガ〉ともいえる。

 かれら「脇役」の特徴をあげようとするなら、まずなにより孤児の割合が高いことがあがえるだろう。記憶喪失のグインはともかくとして、イシュトヴァーン、リンダ、レムス、ナリス、マリウス、ヴァレリウス、オクタヴィア――みな幼いころ親を亡くし、あるいは親に捨てられた人物だ。

 そのせいなのかどうか、かれらのなかにはひとつの本質的な「問い」を抱えている者が少なくない。なぜ自分は自分なのか、ほかの運命をあたえられたものたちをこの自分と、なにが違っているというのか、と。

 ナリスがあの奇妙な古代機械に惹かれるのも、つまるところそれがこの世界そのものの秘密と直結しているからだ。そしてまたあの陽気なイシュトヴァーンを血まみれの狂王へと駆り立てていったのも、突き詰めればおしつけられた運命への反発心にほかならない。

 いいかえるなら、ナリスにしろ、イシュトヴァーンにしろ、「自分が自分であること」を受け容れられないのだ。だからこそかれらはその行動を通して、自分の運命へ「なぜだ!」と問い掛けつづけずにはいられない。

 しかし、そうやって怒りを燃やせば燃やすほど、かれらの生きざまは幸福から遠のいていく。その反対に、あたえられた身分を捨て、放浪に生きることをえらんだマリウスは朗らかだ。また、名もない一市民にすぎないゴダロ一家はいつもあたたかな雰囲気に包まれている。

 いくつかの人生を通してみえてくるもの、それは手に入れようとあがくほど失われていくものがあるということだ。すでに手のなかにあるものを、感謝とともに思うとき、はじめてひとの心は平安を得る。

 王位にまでのぼりつめながら、つねに不安におびやかされるイシュトヴァーンと、過酷な出来事に翻弄されながらも穏やかに生きるゴダロ一家とは、なんと対照的なのだろう。それは、どこまでも自分の運命に反抗しつづけるものと、それを従容と受け容れたものの差なのかもしれない。

 しかしまた、そんな反逆児たちにも、ときには世界と和解する瞬間がおとずれる。クリスタルの浮浪児だったヴァレリウスにとっては、リーナスとの出逢いがそのきっかけになった。ケイロニアの玉座をねらうオクタヴィアのもとには、マリウスの歌声がそれをはこんできた。

 そしてあのアルド・ナリスでさえ、最後には、かつてあれほどまでに軽蔑した人びとを信じ、自分を傷つけた世界を赦すことを選んだのだ。死の間際のナリスは、クリスタルの宮廷で栄華をきわめていた頃よりしあわせそうにみえる。すべてを失ったそのとき、ようやくかれは「自分が自分であること」を許容できたのだろうか。

 それに対して、一貫して過酷な運命を正面から受け止めて生きているのがグインである。かれにとっては、非常なものであれ、苛烈なものであれ、運命は運命なのだ。

 グインと失われたカナン帝国の亡霊のやりとりを綴った『蜃気楼の少女』は、〈グイン・サーガ〉全編でも最も印象的なエピソードのひとつだ。栄光の絶頂で夢のようにほろび去ったカナン。それはこの世で最も理不尽な悲劇である。しかし、それすらも、ノスフェラスとその血の生命を育んだという点では意味のあることだったはずだとグインは語る。

 ここには栗本が複数の作品を通じて語りつづけているテーマがひそんでいる。死をも、ほろびをも受け容れ、そのうえで生きること、それこそが「生」なのだ、と。

 ただ、そのグインですら容易には受け容れられないことがひとつある。ほかならないその豹頭である。なぜこの世界で自分だけがこのような異形の姿なのか、かれはそのこたえを追い求めて中元じゅうを、そしてその彼方までも旅してまわる。かれがようやく自分の運命を受け容れられたのは、ノスフェラスの空高く飛翔した星船のなかだった。そのとき、かれはみずから豹頭の秘密を知ることを拒んだのだ。ひとつの結末。

 しかし、その直後、グインはふたたびすべての記憶をうしなって地上に墜ちる。これは意外性をねらっているようにみえて、実は必然的な展開だったのだと思う。アルド・ナリスがそうしたように、いまの自分に満足して終わることは、グインには赦されていないということ。たぶん、この世界でかれだけは、どこまでも自分をさがしつづけることを運命づけられているのだ。そしてその行為が物語そのものを切りひらいてゆく。かれとおなじように自分の真実をさがしつづける人びとと共に。

 かれらのうちのあるものは弱く、あるものは強い。あるひとは賢く、あるひとは愚かだ。しかし、それらすべての個性は、その優劣にかかわりなく、祝福の息吹をあびてそこにある。

 なるほど、栗本の世界は「暗い情念に支配された存在の闘争世界」(『魔王の国の戦士』解説より)ではある。だからこそ彼女は孤児をヒーローに選ぶ。しかし、同時に、その世界ではすべての者が平等に存在を赦されてもいるのだ。イシュトヴァーンの非情さも、マリウスの奔放さも、ヤンダル・ゾッグの邪悪さも、自分の運命以外のなにものにも裁かれはしない。ただ、だれもが懸命に生きようとし、そして時には非命に倒れていく、そのさまが克明に綴られるだけのことだ。

 僕はかれらを愛する。グインやイシュトヴァーンのようなヒーローだけではなく、この世界で必死に生きようとするすべての人びとを愛する。

 偉大すぎる兄をもったダリウス大公は気の毒な気がするし、気弱なレムスには心からの共感を感じる。かれらは人間として完璧にはほど遠い。しかし、そもそも自分こそ完璧な人間だなどと誇れるひとなど、どのくらいいるものだろう。

 たしかにグインは偉大だ。しかし、だれもがグインのように生きられるわけではない。ほとんどのひとは一面では嫉妬や憎しみや劣等感を抱えて生きているにちがいないのだ。〈グイン・サーガ〉はそれをも肯定する。悪も怠惰も強欲も含めた人間性そのものを、どこまでも力強く肯定する。だから、僕はこの小説を愛する。物語が続くかぎり、僕もその世界へ旅することをやめないだろう。