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これが意外に興味深いので、きょうはこの話をしようかと。
それとは一切関係ありませんが、文章に色彩的な装飾をほどこすことをやめることにした。理由は「面倒だから」。いやー、一々、HTMLタグを入力するの、面倒なんですよねー。どうしても忘れるし。
面倒だと記事を書くことが億劫になってしまい、どうにも本末転倒ですから、過去のフラットな文章に戻します。たぶん残念がるひともほとんどいないでしょうし。
さて、てれびんの記事の話。かれはこんなことを書いている。
ぼくたちは、僕たち自身がみる日常の光景の延長としてキャラクターを見て理解する。それこそ、近所の子どもを見るかのように蛍ちゃんたちを理解するってことです。この認識の差は、大きいのではないかと思っています。ただの「萌えキャラ」は消費されて終わります。でも、人間は消費しきれるものではないでしょう。なんなら横の友達やご近所さんを見てみるといい。ひとは彼らを消費すべき「モノ」としては扱っていないだろうし、仮に消費しようとしても消費しきれない「背景」をその人達は背負っている。この点が物語的な「キャラクター」(=シンプル)と「人間」(=複雑)の違いだと思う。
ちなみに読みやすさを考えてかってにインデントを入れています。普段は決してこのようなことはしないのですが、てれびんの文章だからいいだろ。
さてさて、ここでかれは「キャラクター」と「人間」を区別して考えているわけです。いささか乱暴な区分だとは思いますが、云いたいことはわかる。
皆さんは、何か物語を読んだり観たりしていて、作中人物が生きた人間のように感じられたことはないでしょうか? ぼくは幾度となくあります。
きわめて限られた作品だけになりますが、そういう「キャラクター」たちは、キャラクターであることを超えた、まさに「生きた人間そのもの」と感じられます。
身近にいてよく知っている家族とか、友人に匹敵する存在と感じられるということです。これが「人物が唯一性を獲得する」ということで、この次元に達した作品はもう面白いとかつまらないといったことを超えてしまいます。それは「もうひとつの現実」だからです。
キャラクターが「生きた人間」になってしまうと、もう、イヤな奴であっても、欠点があっても、「そういうものだ」と受け入れるしかなくなってしまうんですよね。だって、生きている人間なんだからしょうがないと。自分の思い通りにならなくて当然だと。
それでは、そういう特異なキャラクターを生み出すためにはどうすれば良いのか? てれびんは「背景に拘る」という手法を説明していますが、多くの場合使われるのは、「バックボーンを描きこむ」方法です。
その人がどんな人生を歩んでそこまで来たのか、何を好きで、何を嫌い、何に歓び何に哀しむひとなのか、徹底して掘り込んでゆく。
そうすれば、読者は単なる「萌えキャラ」ではない、生身の人としてキャラクターを観てくれることでしょう。
文芸批評なんかでよく「人間が描けている」という言葉が使われますが、それとは微妙に異なる意味ながら、やはり「人間」を生み出しえた作品は素晴らしい。
ただ、それはべつだん、「リアル」な人物を描いてほしいということではないんですよ。「こんな奴いるわけがない!」というような漫画的なキャラクターであってかまわない。
しかし、そのキャラクターがそれにもかかわらず紛れもない「実在の人物」となって命をもって動き出すところを見たいのです。
ぼくは時々、「『グイン・サーガ』の世界は在る!」とか気が狂ったようなことを云っていますが(笑)、これは紛れもないぼくの実感です。
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コメント
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キャラクターの実存感。
これは非常によくわかるというか共感する感覚です。
それは何も、現実と空想をごっちゃにしてしまうとか、そういう次元の話では無いのですが、ちゃんと理解されることが少ないように思われてしましますよね。
この前オススメされていた、『リーングラード』現在、二章の途中まで読みました。
めっちゃ面白いです、紹介していただいてありがとうございます。
この話題とつなげると、『リーングラード』には文章の向こうにもう一つの世界が広がっている感じ(既読部分だとその片鱗ですが)が明確に在るなと感じます。
海燕(著者)
ここらへんの話についてはまだ続きがあるので、いずれ記事にしたいと思います。