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 ひさしぶりに有川浩を読んでみる気になって、しばらく前に出てベストセラーになった『阪急電車』を手にとった。片道わずか15分のローカル線に偶然乗り合わせた乗客たちの運命の交錯を、幾人かの人物の視点を行き来しながら描いた小説である。

 いやあ、うまい。さすがライトノベルでデビューしてから間もなくベストセラー作家にのし上がった才能だけあって、その卓抜なストーリーテリングはさすがだ。

 まったくの偶然から少しだけ影響をあたえあい、人生をあたたかい方向へ変えてゆく何人かの乗客たちの過去と未来を描き出すその展開も文句なし。さすがミリオンセラーになるだけはある作品だと思う。

 その点についてはまったく文句はない。あえて文句を付けるとしたら、作者の人間の描き方である。

 ぼくは有川さんの作品が好きでずっと読んでいるんだけれど、どうしてももうひとつハマり切れないところがある。その容赦ない「裁きの目」に、共感し切れないのだ。

 たとえば、この小説のヒロインのひとりは、その電車にウェディングドレスを思わせる白いドレスで乗り込んできた女性である。

 彼女は実は自分を裏切って自分の「友人」と結婚することにした元恋人の結婚式から帰ってきたばかりなのだ。あえて結婚式の常識的なドレスコードを破り、花嫁よりも美しい純白のドレスを来て式に出席することが、彼女の「討ち入り」なのだった。

 彼女は自分を捨てた男への怒りと憎しみと、そして軽蔑を込めてそういう「復讐」をやり遂げ、そしてむなしさとともに電車に乗って来たわけなのである。

 この女性の描写に違和感を抱く読者は少ないかもしれない。ぼくにしても実によく描けてはいると思う。でも、なあ。この発想はどこかねじ曲がっているとも考えるのである。

 何といっても、取ったの取られたの、裏切ったの裏切られたのとは云っても、本来、あくまで自由恋愛のなかでの出来事のはずだ。いま付き合っているからといって、だれも相手に絶対の所有権など主張できないわけである。

 自分を「捨て」て「裏切った」相手や、その男を「寝とった」友人をまるで倫理的な「悪」のように見ることはおかしくないだろうか?

 もちろん、理性ではそうとわかっていても、どうしても怨んでしまうということならわかる。ぼくが好きな村山由佳の『すべての雲は銀の…』には、最愛の恋人を、よりによって実の兄に寝とられてしまった青年が出て来る。

 かれは理屈では恋愛ごとにあたりまえの倫理は持ち込めないとわかっていても、どうしても割り切ることができない。その「瑕」を延々とひきずりつづけ、兄や元恋人を怨みつづけることになる。

 これならわかる。この心理は理解できるのだ。しかし、この女性はそうではない。彼女は、少なくとも自分の心理のなかではどこまでも「被害者」であり「犠牲者」である。

 元恋人の結婚式に白いドレスを来てゆくという自分の行動に対し後ろめたさがなくはないにしても、それはただやりかえしただけだと正当化されているように見える。

 少なくともこの物語のなかでは恋人を寝とった女はどこまでも悪役で、こずるく卑怯な女である。それはじっさいそうなのかもしれない。たしかにその女はひどい奴なのかもしれない。

 しかし、ここには、それでは、そもそも、そういう人間を選んで友達付き合いをしてきた自分はどうなんだ?という問題提起はない。

 自分だってその「友人」を、ほんとうの友達とは思っていなかったくせに、そして内心で「ウザい奴」として見下していたくせに、会社内での立場を考えて打算の付き合いを続けてきた身なのだ。

 ある意味では、この展開はそういう不誠実な人間関係の当然の結末とすら云えるかもしれないではないか。違うかな?

 もしかしたら彼女は、だれに対してもそうやって表面的な付き合いを続けてきたのかもしれない。だからこそ、恋人も彼女を「裏切る」ことになったのではないか?

 暴力や暴言でも振るわれたというならともかく、普通は恋愛ごとにおいて片方が一方的に悪いなどということはないと思うのだが……。しかし、彼女の描写を追っていっても、そういう考えは一切、出て来ない。

 つまり、ここでは「被害者」はどこまで行っても「被害者」で、「加害者」、あるいは「イヤな奴」は、ほんとうにただの「イヤな奴」のままで終わってしまうのだ。

 視点を変えてみればまたべつの真実が見えてくるかもしれない、という希望は提示されない。「あるいは自分の側にも責任があったのではないだろうか?」という反省も湧いてこない。どこまでも一方通行の「怒り」があるだけだ。

 この一作にかぎらず、