ふと、なぜともなく、本を読みたくなる時がある。何の脈絡も、ひとかけらの理由もなく、突然に「その時」はやって来て、「ああ」と、のどの渇きに似た感覚を意識させられるのだ。いま、本を読みたいなあ、と。
弱いなら弱いままで。
ふと、なぜともなく、本を読みたくなる時がある。何の脈絡も、ひとかけらの理由もなく、突然に「その時」はやって来て、「ああ」と、のどの渇きに似た感覚を意識させられるのだ。いま、本を読みたいなあ、と。
ふと、なぜともなく、本を読みたくなる時がある。何の脈絡も、ひとかけらの理由もなく、突然に「その時」はやって来て、「ああ」と、のどの渇きに似た感覚を意識させられるのだ。いま、本を読みたいなあ、と。
まさに先刻がそうだった。そこで、ぼくは深夜まで営業している書店まで向かい、何冊かの本を仕入れてきた。いずれも、ぼくの渇きを優しく潤してくれるに違いないと感じたものばかりだが、なかでもいちばん初めに頁をひらいたのがこの本だった。
江國香織『都の子』。小説ではない。エッセイ集である。それも、ごく軽妙な、云ってしまえば他愛ないことばかり綴った一冊だ。まだ半分も読んでいないが、この先、最後まで読み進めて行っても、世界の深遠を暴き立てるような一行に出逢えるとは思えない。
しかし、それにもかかわらず、いや、まさにそうであるからこそ、ぼくの渇きは確実に癒やされていった。何と云っても、ひとつひとつ正確に選び抜かれた言葉たちの無音の響きがすばらしい。何気なく頁をめくるたびに、白い行間から爽涼な風が吹き込んで来るかのよう。
透明感と云うといかにも安っぽい表現になる。しかし、江國が選び出した言葉たちの、ふしぎに森閑と静まりかえった森のような空気、その静寂の圧力が心にじわじわと沁みこんでくるような雰囲気を表わすためには、やはり、この表現になると思う。
ほんとうにこのひとは文章が巧い。ひと言で巧いというのではとても表し切れないくらい巧い。ふだんからインターネットで沢山の言葉にふれているぼくだが、それでも、こうも秀抜な手際で彫琢された、涼やかな文章の味わいは格別だ。
ぼくはべつだん言葉の美食家を気どるほうではなく、むしろ雑食家に近いのだけれど、それでも、時には純粋で綺麗な文章を浴びて、心に溜まったよどみを洗い流す必要を感じることがある。
心に沈み込んだ怠惰な心や、ひとを怨む想いを、ざぶざぶと洗い落としてしまいたい。そう思うのである。そのためには、江國の文章が最適だ。
世の中に名文家と云われるひとは無数にいる。そのなかで、なぜ、江國の文章だけが、こうも涼しげに心を吹き抜けてゆくのだろう。
くり返すけれど、特にそこに世界の真理が横たわっているとは思わないのだ。彼女が綴りだすのは、いずれも全くつまらない出来事ばかりである。
仮にも作家によるエッセイの題材として選び出されたにしては、いかにも冴えない題材ばかりだと思う。だれが、パレルモのアイスクリームについて夢中になって読むだろうか。すくなくともぼくはそんな地味な街には興味がない。そのはずだ。
ところが、じっさいに読んで行ってみると、いつのまにかその音もなく雨が降る沈鬱な街の描写にひきずり込まれている自分を発見することになる。
これはまったく、言葉の手品だ。ひとつひとつの単語は、どんなうすい辞書にも載っている、ごくごくあたりまえのしろものに過ぎないのに、それが的確な順序で並べられてみると、途端に灰いろのパレルモが目の前にありありと浮かび上がってくるのである。
そして、また、その底しれず憂鬱な街の一角で見つけた、魔法のようなアイスクリームの味わいまで胸に迫ってくるのだから、ふしぎと云うしかない。
いったいどんな修行を積んだら、こういう言葉を綴れるようになるのだろう。それとも、初めからその指にそなわった力なのだろうか。
もしも、自分自身でこういう言葉を綴れるようになれたら、どんなにか幸せだろうと思う。なぜなら、そうすれば、自分の心の泉から湧いてくる言葉たちで渇きを潤すことができるではないか。
それこそ、正しい自給自足というもの。そうなったら、もう二度と魂の渇きを知ることはないに違いない。豪華絢爛、金いろの糸で織り込んだような言葉や、真鍮みたいに鈍くひかる言葉をも自在に生み出せるようになったらなお、良い。
そういう「泉」を
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