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 だれに話しても「いまさら」と云うかもしれないが、村上春樹の『1Q84』を読みはじめた。

 数ある村上作品のなかから、この長編を選んだことに特に意味はない。ただ、ふと手をのばしたところにその本があった。それだけのことである。

 ぼくは『ノルウェイの森』も、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』も、『海辺のカフカ』も読んでいないにわか読者なので、読みさしの内容について多弁を弄するつもりはない。

 ただ、やはりその並外れて端正な内容には圧倒される。文章、構成、人物造形、風景描写――小説世界を構成する要素の一々が、あたりまえのように洗練されている、その凄み。

 特に、くせのないシャープな文章は、読んでいてため息がもれるほど美しい。もちろん、いたずらに美文を弄しているわけではない。そうではなく、細部に至るまで怠りなく意志が込められたその高いクオリティを「美しい」と形容したいのである。

 村上春樹は、ことさらに文章技巧を衒うことをしないが、まさにそうだからこそ、かれの文章には完成された美意識が宿る。感嘆するよりほかない。

 文章には、うまく書こうとすればするほど、どうしても厭味がにじみ出てくる一面がある。ひととは違う表現を用いよう、ほとばしる才気を感じさせよう、そういうことを考えると、とたんに文章は厭らしくなる。

 表現を通し自分自身の技量を誇ろうとすればするほどに、言葉は濁る。じっさい、そのせいでひどく濁った厭らしい文章を書いているぼくが云うのだから間違いない。

 文章の品格とは、そういう「我」を抑え、あたりまえのことをあたりまえに書くところから生まれる。そういう意味で、村上春樹の文章はどこまでも上品で、かつ花やか、さすが日本最高のベストセラー作家だ。

 何より、恐ろしく読みやすい。果てしなく描写に淫し、細部に耽溺していながら、それでもなお、異常にリーダビリティが高い。何百万人ものひとが読める文章なのだから当然だが、その一切力みがない書きようはやはりすばらしい。

 つまりは、村上の文章は