今年の初めあたり、ぼくは「フラワー・フォー・フレッカ」と題した記事を書いています。TONOの名作漫画『ダスク・ストーリィ』の感想記事ですね。


 この記事についたコメントにいまさらながらに気づいたのですが、これがなかなか興味深い内容だったので、いまさらながらにレスをつけたいと思います。まずは「フラワー・フォー・フレッカ。TONO『ダスク・ストーリィ』にひとの勇気を見る。」の一部を引用することから始めましょう。

 TONOの物語はいつも人間に優しい。人間の弱さ、愚かさ、醜さ、小ささに優しい。それはひとの弱さや醜さをそのままに許容しているということだけでなく、それらを慰撫し、救済しているという意味で優しいのだ。

 そしてまたきびしく残酷でもある。ひとを励まし、ふたたび戦いの荒野へ導くという意味でそうだ。その優しさときびしさが相まって、ひとつの物語世界を形作っている。TONOの作品とはそういうものである。

 たとえば第一巻の「第五夜」を見てみよう。ここでタスク少年は気がつくとあるパーティーに参加している。招待主は「フレッカ」と呼ばれる正体不明の女の子。

 しかも参加者のなかで彼女を知らないのはタスクひとりらしい。タスクが「フレッカなんて知らない」というと、かれはパーティーからはじき出される。

 やがて、真実があきらかになる。フレッカはタスクの友人の美少女ニッキーの身代わりとなって刺された少女だったのだ。そして、そのパーティーはフレッカが死の直前に、彼女があこがれた人々の幻想を集めて開いたものだったのである。

 何もかも偽者ばかりのパーティー。フレッカはタスクに語る。

「あなたに何がわかるのよ 私みたいにさえないみっともない子の人生が あなたやニッキーみたいにきれいでかっこいい人には絶対わからないわ にせものでいいのよ 知ってる人になんか もう会いたくない!! だって家族も友人もずーっと私の事なんかばかにしてるんだから」

 そんなフレッカに向かって、タスクは述べる。

「ばかにしてなんかないよ 誰も君の事をばかにしてなんかいないよ 君はうすれてゆく意識とたたかいながら 苦しい息の下 必死でくりかえした “ニッキーがあぶない” “ねらわれてるのはニッキーだ”って おかげで犯人の男はすぐにとりおさえられた 君の言葉がニッキーを助けたんだ ニッキーも彼女の家族もどれほど君に感謝しているか そしてきのうまでぼくは君の事なんか全然知らなかった でも今は思ってるよ あんな恐ろしい目にあいながら なんて勇気のある女の子だろうって」

 ここには真実の物語がある、とぼくは思う。そしてこれこそぼくが求めてやまない物語の形なのだ。

 わかるだろうか。これは勇気の物語である。恐怖と絶望があるからこそひときわ輝く勇気の物語である。ひとが偉大でありえるという話、人間の燦然と輝くプライドのストーリー。

 ここにこそ美がある。人間存在の美、ひとの魂の高潔さの美しさが。そう、ひとは己の業を呪い、どこまでも堕ちてゆくこともできる。一方、フレッカであることもできる。

 そして、ぼくは皆、フレッカであるべきだと思っているのだ。いうまでもない、だれもがフレッカでありえるわけではない。しかし、だからこそその高貴さは際立つ。

 で、この記事に対し、こういうコメントが付いたわけです。

海燕さんは、フレッカとは別のものを目指す人達をどう見ているのですか?
海燕さんがフレッカの高貴さに憧れることと、「ぼくは皆、フレッカであるべきだと思っているのだ。」と思う事は別だと思います。

例えば、「恐怖に翻弄されつつ、しぶとく生き残る人」が、フレッカ(恐怖と絶望に立ち向かう人)に、必ずしも劣るわけではないと思うのですが、いかがでしょう?

バイソンにはバイソンの生き様があり、亀には亀の生き方が、ヤギにはヤギの生き方があって、それぞれ等しく尊ばれるものだと思います。

 一読、なるほど、と思いましたね。「恐怖に翻弄されつつ、しぶとく生き残る人」が「恐怖と絶望に立ち向かう人」に、必ずしも劣るわけではない。その通りです。

 このコメントを読んで、ぼくは瀬戸口廉也がシナリオを書いた名作ゲーム『SWAN SONG』のあるセリフを思い出しました。「醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしいです」。

 このセリフは物語終盤に出て来るのですが、『SWAN SONG』全体の主題を象徴するものと云っても良いでしょう。主人公である尼子司はここで、人間の生き方に優劣はないのだと云っているように思えます。

 どんな生き方を選ぶとしても、それはすべて素晴らしいのであって、成功とか失敗とか、勝利とか敗北といった世間のあたりまえの価値観だけでは人間の「生」を計り知ることはできないのだ、と。

 ぼくはこのセリフに心から感動しましたし、また、このコメントに共感しもします。たしかに「誰だって人間は素晴らしい」し、どんな生き方も「それぞれ等しく尊ばれるべき」ではあるでしょう。

 しかし――それで終わりなのか? 「誰だって人間は素晴らしい」のだから、どういう生き方を選ぼうとそれは勝手で、色々なあり方が「それぞれ等しく尊ばれるべき」であるのだから、どんな生き方をしようがひとに文句をつけられる筋合いはないのか?

 たしかにそういうふうに考えることもできるでしょう。ですが、その考え方は矛盾していると思うのです。なぜなら、それなら他者の「素晴らしさ」を尊重することなく、傷つけ、踏みにじるような生き方もまた「等しく尊ばれるべき」である、ということになってしまうからです。

 ぼくもまた、司が云うように「誰だって人間は素晴らしい」と思う。さまざまなありようが「等しく尊ばれるべき」であると考える。しかし、それと「ひとはどう生きるべきなのか」という問題は切り離して考えなくてはならないとも思っています。

 そうしなければ、「どんな生き方もひとしく素晴らしい」という言葉は、単なる現状肯定や堕落をそそのかすものとしか見えなくなってくるはずです。

 だから、ぼくはこう云うのです。なるほど、たしかにこのコメントで書かれているように、「パイソンにはパイソンの生き方があり、亀には亀の生き方が、ヤギにはヤギの生き方がある」。

 だが、それでもなお、パイソンはパイソンなりに、亀は亀なりに、ヤギはヤギなりに、「いまある自分」より一歩でも、半歩でもより良いありようを目ざすべきなのだ、それが人間の人間らしい生き方というものなのだ、と。

 そう、「恐怖に翻弄され」るひとは、「恐怖に翻弄され」ながら前を目指すべきだし、絶望に打ちのめされるひとは、まさに絶望に打ちのめされたそのままの姿で、それでもなお、先へ進もうとするべきなのである、とぼくは云うのです。

 おそらく、この押し付けがましい「べき」という断定に反感を覚えるひともいるでしょう。ひとがどう生きようがそのひとの自由ではないか? そんなこと、だれかに押し付けられる理由はないではないか? そういうふうに考えるひともいるに違いありません。

 しかし、ほんとうにそうでしょうか? 中島みゆきに『ファイト!』という名曲があります。「闘う君の詩を、闘わない奴らが笑うだろう。ファイト!」というサビの部分を、だれでも聴いたことがあるに違いありません。

 ただ、なにぶん昔の歌であり、全曲通して聴いた経験はないというひとも少なくないのではないでしょうか? あらためて全曲を通しその歌詞を検討してみると、その、まさに壮絶としか云いようがない内容があきらかになります。

 くわしい歌詞は、たとえばこちら(↓)を参考にしてもらいたいのですが、全曲を通して聴いてみると、「ファイト!」という何気ない言葉はきわめて重い意味を持っていることがあきらかになります。


 それは単に「がんばれ!」などという微温な内容ではなく、まさに言葉通り「闘え!」という凄まじくも優しい激励なのです。その歌詞の、たとえばこの一節。