今朝、Twitterで妙な人物(としか形容できないような妙な人物)に絡まれ、さすがに相手をする気になれなかったので、即座にブロックした。

 自分が間違えたことをしたとは思わないが、だれであれ、ひとを拒絶するということは後味が悪いものだ。それは、豊かに開かれた対話の可能性からの「逃げ」であるような気がするわけだ。

 じっさいのところ、この場合、いくら熱心に対話したところで素晴らしい展開が待ち受けているとは思えないし、それどころか疲労困憊したあげくどす黒い気持ちになることが明白であるので、やはりブロックするしかなかったのだと思う。

 それでも、だれかをブロックすると、やはり何となくイヤな気分がのこる。インターネットには「カジュアルブロック」を推奨する論客もいるし、それが間違えているとも思わないのだが、どうにもこう「逃げた」ように思えて気分が沈む。この思いは何なのだろうか?

 結論から云うと、この感覚は「あらゆる対話を避けるべからず」、「あらゆる批判から逃れるべからず」というある種の道徳観から来たものなのだと思う。

 つまり、どんなに不毛な意見であれ、それを避けることは自分の世界を狭くすることであり、自分に対して批判的な意見に扉を閉じてはならないという考え方が根底にあるのだ。

 この道徳観は、一見すると、非の打ち所がない。ほとんどの人は、「ひとは耳に痛い意見を避けるべきか? 傾聴するべきか?」と云われたら、「それは傾聴するべきである」と答えるのではないだろうか。

 この手の話をするとき、多くのひとは「裸の王さま」というアンデルセンの童話を思い浮かべることだろう。ある国の王さまが、「バカには見えない衣装」なるものを売りつけられたものの、家臣たちを初めとする周囲の人間はだれもそれが実在しないことを指摘せず、ただひとり、無邪気な子供だけが「王さまは裸だ!」と叫んだ、という話である。

 この童話の教訓はあきらかだ。つまり、自分を追従する人間ばかりに囲まれ、クリティカルに批判的な意見を避けていると、しまいにはこの王さまのように恥ずかしい人物になり果ててしまう、と。

 なるほど、現実に照らしあわせてもありそうな話だ。ぼくも、いまなお、ある程度は説得力がある童話だと思う。批判的な意見に耳を傾けることも時には必要だろう。そのこと自体を疑うつもりはない。

 しかし、だからといって「常に」裸の王さまであることを心配しつづける必要は、実はもうないのではないだろうか。ぼくたちインターネットユーザーはもうこの童話の射程の外にまで飛び出てしまっているように思う。

 というのも、現代においては、ある人物が「裸」であるとするならば、だれもがかれを恐れて口をつぐむなどということはありえないからだ。必ず、だれかがインターネットを使って「王さまは裸だ!」と叫ぶに違いない。

 いや、それどころか、たとえじっさいには王さまが裸でなくても、「王さまは裸だ!」という意見は百出することだろう。その頻度は、その「王さま」の知名度にほぼ正比例する。

 つまり、その「王さま」に一定の知名度があるならば、じっさいに裸であろうがあるまいが、「王さまは裸だ!」と叫ぶひとが一定の割合で必ず存在するのが現代という時代であり、インターネットという空間なのだということ。

 ようするにぼくたちはいま、だれも、たとえそう望んだとしても、裸の王さまになどなれはしないということなのだ。もはや、だれであっても、自分に不都合な情報を統制することなど不可能だ。

 どんな尊大な独裁者であっても、ネットを支配しきることなど到底できはしないのだ。だから、この時代においては、「裸の王さま」になることを恐れるより前にやるべきことがある。いかにして「王さまは裸だ!」という叫びをシャットアウトするかということである。

 ――と、こう書くと即座に反論が返ってくることが予想される。いや、たしかにネットの情報すべてを統制することは不可能だが、それらを自分の耳に入れないようにすることは可能ではないか。

 そう、自分にとって不都合な意見を云って来た者がいたら、次々とブロックすれば良い。そうやって批判的な意見から逃げ続けたなら、やはり「裸の王さま」になることは避けられないのではないか、と。

 一理ある。しかし、それでもなお、ぼくはネットユーザーは情報を選別するべきだと思う。そうしなければ、必ず意見情報の洪水に飲み込まれ、自分自身の立ち位置を見失うことになってしまうからだ。

 なるほど、「耳に痛い意見」を避けつづけることはまずいだろう。しかし、じっさいには、それはもうどうやって避けようが必ず耳に入って来ると考えるべきだと思う。

 ネットで「王さま」を批判する人間がひとりしかいないなら、その人物をブロックすることはすべての批判的意見から逃げ出すことを意味してるいかもしれないが、現実にはそういうことは考えづらい。

 あるひとをブロックしても、ほかのだれかが批判を続けるはずだ。だから、どう避けようとしても、「耳に痛い意見」は必ず目に入る。

 ただ、だからといってそれに対してまったく無防備でいることは、インターネットにおいては、まさに裸で荒野に立つような行為だ。

 いかにして自分にとって有害な情報を可能な限り遮断するか、というディフェンスを試みなければ、早晩、その人物は「耳に痛い意見」の洪水によって精神を病んでしまうだろう。

 いやまあ、それでも、その「耳に痛い意見」が紛れもない真実であるのならば、その展開もしかたがないことかもしれない。しかし、「耳に痛い意見」がほんとうに的確な批判である証拠など、何もありはしないのだ。

 それは単に痛いだけ、気持ち悪いだけ、うんざりするだけ、ばかばかしく思えるだけで、まったく的を外した意見であるかもしれない。

 勘違いしてはならない。耳に痛いからといって、必ずしも的確に自分の急所をえぐっているというわけではないのだ。ただあまりにも下品だったり、一方的だったりするから「痛い」ということも十分にありえる。

 そして、そういう意見を片端から受け入れていたら、ひとは決して幸せにはなれないのだ。

 ぼくの云うことは単なる開き直りだろうか。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の言葉のように、どこまでも謙虚にひとの意見に耳を傾けつづけることが大切なのだろうか。

 過去においてはそうだったかもしれない。しかし、いまの時代、ある程度知名度があるひと(もしくは、一時的に知名度が向上したひと)に寄せられる意見の量は、一瞬で個人が処理できる限界を超える。ぼくたちは必然的にそれを選別して対応せざるを得ないのだ。

 そしてどんな基準であれ選別する以上、「自分に都合の良い基準で選んでいる」という批判をかわすことはできないだろう。それはつまり、「自分の云うことは正しいのだから受け入れろ!」と同義であったりするのだが、とにかく情報の選別は「耳に痛い意見」を避けている、という批判を必然的に伴う。

 しかし、とぼくは思う。それは無意味な批判である、と。インターネットで一定以上の意見を寄せられたひとは、だれでも、そのすべてを真摯に考慮に入れて反応することなどできはしないのだ。

 それらをあえて遮断はしないひとでも、そのすべてに一々反応しつくすことなどできはしないだろう。一対一の対話ですら困難なのに、一対百、一対千の対話ができるはずがない。どうしたって情報は選別した上で対応せざるを得ないわけだ。

 そういう人物を批判する人間は、当然、自分の意見が正しいと思っているから、「この人物は、まさに裸の王さまのように、自分の意見から逃げて自分に都合の良い意見ばかり受け入れている!」と考え、そう批判することだろう。

 じっさいにそうかもしれないし、そうではないかもしれない。いずれにしろ云えることは、かれの批判もまた百分の一ないし千分の一の意見であるに過ぎず、本人の主観的にどれほど正当であるとしても、それを受け止める相手にとってはそれだけの意味しか持っていないということだ。

 そういう状況下において自分の意見を聞いてもらいたいと思うなら、少なくとも相手が受け止めやすい球を投げることが必要だろう。自分が正しいのだから相手は受け入れるべきだ、受け入れられないのだとしたらそれは相手が裸の王さまだからだ、というのなら、その本人自身が裸の王さまめいている。

 べつだん、この世は批判する側が正しく、批判される側が間違えている、というふうにはできていない。だから、少なくともこのインターネット社会においては、自分が正しくないと思う情報はシャットダウンしてかかることが必要だ。

 それによって「耳に痛い批判から逃げている」というありがたくないご意見をいただくとしても、あらゆる情報を処理しようとして洪水に流されるよりマシである。

 それなら、どうやって精神の健全さを保てば良いのか――それは、やはりひとを選んで意見を聞くということしかないと思う。この人の云うことであれば、たとえ耳に痛くても受け入れる、というひとを決めておく。

 そういうふうにするのではなく、ひたすら無差別にあらゆる意見を検討する、ということは、非現実的であるばかりか、ほとんど自殺行為に近い。

 それが「耳に痛い意見」であれ、そうでないのであれ、情報は取捨選択するべきである。王さまは裸なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。その真相を自分に寄せられる玉石混交の意見から判断することは困難である。

 そうだとすれば、まずは玉と石を区別するところから始めるしかないではないか。ぼくはそう思う。やっぱり相手をしていられないような妙な人物はブロックするしかないのである。ああ、すっきりした。