つい先ほど、「艦これは少女を命がけで戦わせる”美少女ポケモン”なのでヤバい」というTogetterを読みました。
んー、コメント欄で異論反論が百出していることからもわかる通り、「何か違うのでわ?」と思わせられる話なんだけれど、ぼくはそこまで熱心な『艦これ』ユーザーではないので、ここでは一般論として上記リンク先で語られている「立場的にも精神的にも絶対優位に立つ男子が比較的安全な後方に陣取り、女子に命令して前線へ送り込み命がけで戦わせる」という形式のどこに問題があるのか、あるいはないのか、という話をしましょう。
このまとめで語られている論旨は(複数の人物の複数の意見を経たものではありますが)、一貫しているように思えます。
「少女を前方で戦わせて男性が後方で命令する」形式には倫理的、あるいは政治的な問題がある。それは「ヒモ」めいていて、「醜い」し、「気持ち悪い」という主張です。
これは一見すると、なかなか論破しがたい主張であるように思えます。だって、大の男が後方で偉そうに命令していて、可憐な女の子たちが前方で戦う。そんな形式って、どこか歪んでいるとしか思えないではありませんか?
しかし、ほんとうにそうでしょうか? 結論から書いてしまうと、ぼくは違うのではないかと思う。「少女を前面で戦わせて男性が後方で命令する」という形式に、何らかの「歪み」を見てしまうその認識こそが、まさに歪んでいるのだ、と思うのです。
どういうことか? 前提から考えてみましょう。まず、ここで使用されている「立場的にも精神的にも絶対優位に立つ男子が比較的安全な後方に陣取り、女子に命令して前線へ送り込み命がけで戦わせる」」という云い方には、既にしてふたつの予断が含まれています。
(1)「後方で命令する」人物、『艦これ』の場合で云えば、「提督」が男性であること。そして(2)あくまで少女たち、『艦これ』で云えば艦娘たちは提督の命令に従って戦わせられているに過ぎないのであって、主体的な意志で戦っているわけではない、ということです。
上記のまとめではこのふたつの予断によって、結論が誘導されている印象があります。まず、少なくとも『艦これ』では客観的事実として「女性提督」が相当数実在しているはずで、「提督は男性」と決め付けるべき理由は見あたりません。
この時点で、仮に『艦これ』が「美少女ポケモン」ものであると認めるとしても、「立場的にも精神的にも絶対優位に立つ男子」だけを描く作品であるとは云えません。
むしろ、そうであるにもかかわらず、なぜ提督は「男子」であると決めてかかっているのか、その点を考えてみるべきです。そこにはある種の偏見(バイアス)が含まれているように思えます。
が、それは置いておいて、次のポイントに行きましょう。「(2)」です。ここでは「「タキシード仮面は働かないのにうさぎに惚れられてるけど、物理的に上の位置にいる助言役ってだけで積極的な指示は出さず、命がけで戦うのはあくまで少女の意思なんですよね。「さあ戦え、セーラームーン!」とか煽ってたらダメなヒモっぽさで超いやらしいかんじ。」と書かれています。
また、「その立場の人が働いてる様子なしで命令してたらやらしい感じなのは男女あんまり関係なさそうですけどね。むしろ男女関係的に超慕われてるのが働いてないのに言うこと聞いてもらえる免罪符なのかも。結局ヒモっぽいのは変わんないですか」とも書かれているんですけれど、ぼくはこの意見に大きな異論を感じます。
提督は提督という仕事をしているのであって、十分に「働いている」ではありませんか? 何の根拠があって命令しているほうが働いていて、命令されているほうは働いていないと決めつけるのか?
いや、もちろんわかりますよ。命がけで戦場で戦っているのは艦娘たちなのであって、提督は具体的に何の仕事もしていない、安全なところでふんぞり返っていばっているだけだ、ということなのでしょう。
しかし、この種の主張は組織におけるリーダーの役割を不当に軽んじているように思えます。つまりは一兵卒は働いているけれど将軍は働いていないで楽をしている、という主張ですからね。
もちろん、無能で傲慢な将軍はそういうものかもしれないけれど、有能な将軍はめちゃくちゃ働いていると考えるべきではないでしょうか?
つまり、提督は「その戦いにおける戦術を緻密に練り、艦娘たちの戦力を効果的に活かす」という仕事を行っているのです。だから、たとえ自分自身が命を晒していないにしても、そこには重い責任感があると考えるべきでしょう。
ここにあるものは、ぼくがずっと前から語っている「リーダーとフォロワーを巡る倫理の問題」です。つまり、フォロワーに指示を下すリーダーにはフォロワーに対する無限責任が存在するのか?という問題ですね。
ぼくは、この問題に対して「存在しない」という結論を出しています。ひとがだれかに対する無限責任を負おうとすることは傲慢であり、不当なのだと。
もちろん、リーダーはフォロワーに対して「一定の」責任を負っている。そして、最善を尽くしてフォロワーの能力を活かす義務をも負っている。
しかし、フォロワーの行動と存在のすべてが全面的にリーダーの責任であると考えることは、フォロワーの自我を無視する考え方であり、間違えている、という結論です。
このことについて、ペトロニウスさんは『魔法先生ネギま!』を例に出してこう書いています。
でも、僕はよく思うのですが・・・確かにリーダーや公的に責任がある立場の人には、絶大な責任があります。だってマクロを管理する立場にあるわけだから。でも、すべてを管理できるわけではない以上、やはり、どこかで線を引いて、「何をなすにも、それはフォロワーの決断」と考えなければ、それは、相手を対等に見ていないことになってしまうのではないかな?って思うのです。たくさんの情報を持つネギだって、リーダーだって、すべてを見とおせるわけではないのですから。結局は、「どうなるかわからない不確かな未来に足を踏み出している」同じ人間にすぎません。
おお、7年前の記事だよ。なつかしい。ぼくもよくこんなやり取りを憶えているよな。
それはともかく、ぼくもまさにこう思うのです。提督にしろ、艦娘にしろ、サトシにしろ、ピカチュウにしろ、つまりは「「どうなるかわからない不確かな未来に足を踏み出している」同じ人間」に過ぎないのであって、表面的な主従関係を超えて、実は対等なのだと。
なるほど、表面的にはピカチュウは戦っていて、サトシは後方で楽をしているように見える。しかし、そのとき、サトシにはピカチュウを最善の形で戦わせる責任があり、ピカチュウにはサトシに対する絶対の信頼がある。
だからこそ、『ポケモン』という物語は表面的な倫理問題を超えて多くのひとの心に波及していくのであって、決して「『ポケモン』はサトシがポケモンを虐待するだけのひどい話」などとは云えないのです。
むしろ、部下を可能な限り効果的に戦地へ送り込まなければならない将軍の苦悩は、ただひたすらに戦っていれば良い兵士の苦悩を上回ることすらあるでしょう。
最近の作品でここらへんのことを最もうまく描いているのはおがきちか『Landreaall』だと思います。このテーマの具体的な展開を知りたい方は、この漫画の第12巻から第13巻をぜひどうぞ。
そして、このテーマを最も先鋭的な形で表現しているとぼくが考えるのは、栗本薫『グイン・サーガ』第65巻の一節です。この巻で、パロの王子アルド・ナリスは、不運にも無数の部下を辺境の土地に散らせてしまったことに重い後悔を感じている黒太子スカールに向けて云い放ちます。
「私は、いま、心から、『それは、かれら自身が選んだことなのだ。だからそれについて、私がいたんだり、くやんだりするのはあまりに傲慢である』と答えることができます。――私自身もたとえ誰にさとされようとすかされようと、あるいはさまたげられようと迷うことなくおのれの信ずるままに進んできてここにいたった。そしておのれののぞみをつらぬくためにつきすすみ、そのために死んでもいいと思っている。(略)かれらがもしここに亡霊となって立ちあらわれたとしたら、かれらは何というと思います。かれらは誰もあなたを責めはしない。かれらはおのれのことを誇りに思っていないでしょうか? そしてあなたのいのちを守るため、あなたの望みをかなえるためにそのいのちをささげたことをもって『自分の生まれてきたのはこのためだったのだ』と思って死んでいったのではないのですか――あなたのために。あなたのお役にたててよかった――と。(略)」
「あなたが、かれらに命じたのではない。かれらが、あなたを選んだのだ。あなたには、選ばれたことに対する責任こそあれ、かれらの死を背負いこむ理由などありませんよ。あったとしたらそれは傲慢というものです。こういっては、傷ついているあなたにきびしすぎることばときこえるかもしれませんが。私は――私もまた、いろいろと悩みました……私の迷いを啓いてくれたのは、私がその一生をほろぼすことになった男のことばだった。私が正しい愛国者の道からひきずりおろし、闇にひきこみ、迷わせ、恋を奪い、ともに破滅することへひきずりこんだ、その男がにっこりと笑って、『あなたじゃない、私があなたを選ぶのだ』と考えるにいたったとき――私は、はじめて知りました。それでは世の中には、何かを与えてやることではなく――何かをしてもらうこと、何かを与えてもらうことによってだけ与えることのできる贈り物もあるのだなと――その贈り物の名は、《信頼》というのだと」
「あなたが、かれらに命じたのではない。かれらが、あなたを選んだのだ」。そして、世の中には「何かをしてもらうこと、何かを与えてもらうことによってだけ与えることのできる贈り物」もある。その贈り物の名は、「信頼」という。
こう考えるなら、提督と艦娘たちの関係は決して一方的な命令→服従というものではなく、責任↔信頼であることが想像できます。もちろん、作中でそこまでは描かれていないとしても、少なくともそういうふうに受け止めることはできる。
だとしたら、なぜ、提督と艦娘たちの関係が「醜い」、「気持ち悪い」ものに思えてしまうのか? それは「成人男性」という「強者」が、「未成人女性」という「弱者」を前線で戦わせて自分は戦わない、という形式に倫理的な問題を見るからでしょう。
たとえば、このツイートではこう書かれています。
特に日本のゲームやアニメ・漫画に対して感心しないのは、少年少女を戦わせてそれがさも当たり前みたいに話が進んでいくところかな。現実的に考えれば成人男性が真っ先に矢面に立って戦うのに。現実的に見たら主人公が少年少女って少年兵の話ですよ。どこの未開の地の民兵組織よ。
つまり、ここでは「成人男性が真っ先に矢面に立って戦う」ことが最も正しい、政治的問題が存在しない形式である、という意見が提出されているわけです。
この意見には成人男性こそが「強者」であり、本質的に「弱者」である「女子供」を守って戦うことこそが正しい姿なのだ、という考え方が背景にあるのでしょう。
しかし、成人男性こそ強者であり、「女子供」は弱者である、というのはほんとうにそうでしょうか? 仮に現実世界ではそうであると認めるとしても、イマジネーションの世界において、その「現実」をなぞることが最も政治的/倫理的に正しいのでしょうか?
ぼくはそうは思わない。それは結局、戦うのは男の仕事、女子供は守られていれば良いという発想であって、「固定的性役割分担にもとづく性差別」というものなのではないですか?
もちろん、日本のサブカルチャーに、成人男性が「矢面に立って」戦う物語がまったく存在しないというのなら、それは倒錯であり歪みである、という云い方はできるでしょう。
しかし、現実にはそうではない。仮面ライダーやウルトラマンの大半が成人男性であることからもわかるように、ちゃんと大人が戦っている作品もあるわけなんですよ。
何が云いたいのか? つまり、ぼくは「成人男性が戦い、女子供は守られる」という形こそが唯一の政治的に正しい形式だとは考えないということです。
それどころか、そもそも「唯一の政治的に正しい関係」なるものが存在し、その反対の「許されるべきではない間違えた関係」も存在する、という認識そのものを認めない。
そういうことじゃないと思うんですよ。逆に考えるんだ、ジョジョ、です。そう、たったひとつの「政治的に正しい」関係性が存在するのではなく、ありとあらゆる多様な倒錯的関係性が許容され、しかもそれが倒錯と認識されない状況こそが最も政治的に正しいのだと考えるべきなのです!
つまり、成人男性が少女に命令する形式があっても良いし、成人女性が少年に命令する形式があってもいい。あるいは少女が男性に命令する形式があってもかまわない。
さまざまな関係性が野放図に繁栄している状況こそが最も倫理的なのであって、あるひとつの作品、ひとつの形式、ひとつの関係性を取り上げて「これは政治的に間違えている」ということは、じっさいにはむしろ差別的言説であるかもしれない、ということです。
『艦これ』に従来の前衛男性中心的関係性からの逸脱なり倒錯が見られるとしても、それを是正しようとするべきではありません。むしろもっと広範に多角的に倒錯させるべきなのです。
そのような逸脱的主従関係を、ぼくたちはたとえば『Fate』シリーズに見て取れるでしょう。この物語では、ほとんどありとあらゆるパターンのマスター×サーヴァント関係を発見することができます(二次創作まで入れるとさらに多様。ここでこっそり自分の同人誌を宣伝しておくと、ぼくが夏コミで発売する予定の『Fate/Bloody rounds(1)』は「美少女リーダー、男性フォロワーたち」の物語です。よろしくお願いします)。
『艦これ』はたしかにそれ単体を見ればひとつの倒錯した人間関係を推奨しているように見えなくもない。しかし、だからその倒錯を見直そう、ということは間違えている。
もっともっと倒錯させつづけ、ありとあらゆる倒錯があたりまえな状況を作るべきなのです。それが最もポリティカル・コレクトな結論だと思います。
だから、
そうすると、ぼくの考える美少女ポケモンもの、「男性指揮官が女性戦闘員を使役して命がけで戦わせる」「戦闘員が幼い女性だとヤバい」「恋愛感情で操ってるともっとヤバい」ってのにいちばん自覚的な作品は、『ガンスリンガー・ガール』ってことになりますねー。
ガンスリンガー・ガールは、オタが好きな少女兵士の非人道的なヤバさをドライアイスで固めてブン殴ってくるような、画期的に自覚的な作品です。2002年の時点ですでに美少女ポケモンをテーマの中核に据えたマスターピースですね。いや終盤読んでないんですが。
いや、終盤も読みましょうよ! だって、その終盤ではまさに「たとえ、表面的な関係に主従、支配と被支配といった非対称性があろうとも、それでもなお、ほんとうに対等な関係を築くことは可能である」というテーマが打ち出されているんだから!
どんな人間関係も、必然的にある種の権力関係を内包します。そこでは強者と弱者が生まれ、支配と被支配の関係が表れる。それでもなお、その限界を超えて、ひとは対等な愛と信頼の関係を築くことができる、ということが『GUNSLINGER GIRL』の、あるいは栗本薫作品の最終的な結論でありテーマでした。
たとえそれが一瞬のうたかたの幻であるに過ぎず、次の瞬間にはまた果てしない権力闘争に戻っていくしかないとしても、です。
たしかに初期の『GUNSLINGER GIRL』は「オタが好きな少女兵士の非人道的なヤバさをドライアイスで固めてブン殴ってくるような、画期的に自覚的な作品」と評価するべきだったかもしれませんが、終盤ではそれをも確信的に乗り越えていると思うんですよ。
こういう作品がちゃんと出て来るということが、この世の中の面白さであり、それを無視して「これは倫理的に間違えている!」と告発しても始まりません。ただ上から目線で告発して終わらせるのではなく、「その先」を考えていくのが読者たる者の役割ではありませんか?
ちなみにぼくはもう疲れたので(現在早朝5時……)、あえて語りませんが、『GUNSLINGER GIRL』のドラマツルギーに関する詳細な分析は、ペトロニウスさんの以下の記事をどうぞ。さらには永野護『ファイブスター物語』あたりも押さえておきたいところです。
そして、この分析は、昨日発売(!)の『ビッグコミックスピリッツ』で商業版連載が始まった『バーサスアンダースロー』こと『1518!』へと続いていきます。
こうやって、物語は語られ、詠われ、継がれてゆくものなのでしょう。ひとつの物語の終わりは次なる物語の始まり。そして、さらなる次の世代、次のテーマへ、ひとが、ひとを愛するということを巡る物語は続いてゆくのです。