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オタクはどこまで深い友達同士になれるのだろうか?
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オタクはどこまで深い友達同士になれるのだろうか?

2014-09-12 00:32
     この記事。


     2ヶ月くらい前に話題になった文章のようですが、ぼくは最近読んだのでいまさらながらに取り上げてみます。「オタク同士の友人関係で気をつけたいこと」というタイトルで、まさにそのままの内容となっています。

    過去、オタ友達と喧嘩別れした時の状況を考えてみると、そこには一つのオタク特有の原因があるような気がします。オタクゆえに相手が許せないという事と、オタクゆえに人間関係より優先させてしまうものがあると言うことです。

    (中略)

    しかし、絶対にやってはならない事がひとつだけあります。それは相手の好きなものを貶す事です。自分の好きなものを良く見せる為に相手のすきなものを悪く言うなんて人がオタクの中には多いです。さらにはそれを教えてやる事が親切だと思ってさえいます。しかし、自分の好きなものを貶されて喜ぶ人はいません。オタクだからなお、自分の好きなものを悪く言われるのは許せなく思います。

     というのが、趣旨ですね。そして、ここから発展させて、以下の五箇条の結論が出ています。

    1)相手の好きなものを尊重する。たとえ自分が嫌いであっても貶さない。
    2)自分の我を通す事より、相手との人間関係を尊重する事のほうが大切。
    3)どちらかが叩きつぶされるまで戦うような事はしない。そうなる前に止める。
    4)相手を迎合させようとせず、相手を理解しようとする。その上で人間関係を築く。
    5)友人に甘え過ぎない。親しいからこそ礼儀を重んじる。

     ぼくとしてはほぼ納得がいく結論なんのですが、「1」の「たとえ自分が嫌いであっても貶さない」だけには、仄かな違和を感じます。「貶す」っていうのが、そもそもどういうことか、という話ですね。

     ただ作品の欠点や瑕疵を指摘することは「貶す」ことにあたるでしょうか? この場合でいうと、おそらくそれも「貶す」とみなされることになると思うんだけれど、ぼくとしては「貶す」とか「褒める」といった言葉そのものに違和を感じざるを得ません。

     ぼくはいつも、何か作品を評価する時、「褒める」とか「貶す」とかいった次元では語っていないという自己認識があります。

     その作品がぼくの目から見てどのように見えるのか、その様相を時に淡々と、時にパッションを込めて語っているだけで、主観的には褒めているわけでも貶しているわけでもない。

     ただ、肯定的な語りは褒めていると受け取られやすく、批判的な語りは貶していると受け止められやすいというだけでね。

     ぼくにとっては、「この作品のこの箇所にこういう構造的な欠点がある」と指摘することは、べつに作品を貶していることではないし、まして作者を侮辱していることではさらさらないわけです。そういう受け取られ方をすることは仕方ないとは思うけれどね。

     だから、「相手の好きなものを貶さない」というルールは尊重するとしても、「でも、問題点を指摘するのはいいよね?」と思ってしまうところはある。

     もちろん、ぼくが欠点とか問題点だと思う箇所を、相手もそう思っているとは限らないわけで、そこに何かしらの議論が起こる可能性はあるでしょう。

     しかし、そういう議論を交わせる関係こそ、真に成熟した「オタク友達」といえるのではないでしょうか? 
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