01adad3481d6e66c60acecf506cf0d7782a6abd9

 ふしぎな小説だ。ちまたでは「鬱小説」の書き手として知られる唐辺葉介の作品なのだけれど、少なくともぼくは辛いとも苦しいとも思わなかった。

 もちろん、半端でなく過酷な描写が続くのでひとによってはきびしいと感じるのだろうが、ぼくとしてはそういうものだとは思わない。

 唐辺葉介『つめたいオゾン』。これは、崩れてゆくひとの輪郭についての物語だ。

 この作家が世に出た『PSYCHE』からずっとこの作家の作品を追いかけて来たわけなのだが、いま、ようやく理解できた気がした。

 唐辺葉介名義の作品が、瀬戸口廉也名義で発表した『SWAN SONG』と何が違うか。火のように苛烈な意志を持って運命に抗うキャラクター――つまり、尼子司がそこにはいない点が違うのだ。「尼子司がいない『SWAN SONG』」。それが唐辺葉介作品なのである。

 未プレイの方のために説明しておくと、『SWAN SONG』は一部でカルト的な人気を博したゲームで、ぼくなりの解釈によると、過酷な運命に対し抵抗しようとすると青年尼子司と、しずかにすべてを受け容れようとする女性佐々木柚香の相克の物語である。

 『つめたいオゾン』は、この上なく過酷な現実を描き出しているという点では『SWAN SONG』と同じなのだが、運命に抵抗しようとする主人公がそこにはいない。

 だから、あくまでもしずかに運命の残酷さを許容し、崩れ、壊れていこうとする人々の物語となっている。その意味ではひとかけらの救いもない。

 しかし、自己満足的に登場人物を苛んで喜んでいる次元の物語ではまったくない。そうではなく、作者が残酷な描写を通して描き出そうとしているものは、その圧力に晒されて崩れ、壊れ、ついには失われてゆく儚く脆い想いであるように思える。

 この小説のテーマは、人格の融合だ。あるひとりの少年と、少女の人格が混ざり合い、ついにはひとつになってしまうプロセスを描いている。

 SFとしてはごくありふれたアイディアである。しかし、これが唐辺葉介の手にかかると、ある種の透明な哀切さを帯びて迫ってくる。

 作者は、べつだん、サイエンス・フィクションとしての新味を狙っているわけではないだろう。そうではなくて、儚く崩れてゆく人格の哀しみを繊細に描き出すことが目的であろうと思われるし、それは成功している。

 この小説は三章構成になっている。まず、初めに俣野脩一という少年の物語が綴られ、続いて中村花絵という少女の物語が続く。そして、第三章において、ついに出逢ったふたりの精神がしだいに融合してゆく過程が描かれる。

 少年と、そして少女が、その人生において懸命に積み上げていったものが波にさらわれるようにして失われてゆく過程を淡々と綴っている、と見ることもできる。

 そう、この小説の、というか唐辺作品の特徴をひとつ挙げるとするなら、決して文章が感情的にならないことだろう。唐辺葉介の綴る文章は、どこまでもしずかで、諦念に充ちている。

 この、何というか体温が低い感じ、次々と起こる出来事の悪夢的なまでの残酷さ、醜悪さに対する主人公たちの主観の静謐さこそが作家唐辺葉介の最大の特徴だと思う。

 かれの主人公たちは、総じて酷烈を究める運命に対して受動的であり、また許容的である。どんなひどいことが起こっても、何もかも仕方ないこととあきらめているように見える。

 今回、ふたりの主人公のうち特に中村花絵には、それこそ「鬱小説」と呼ばれるにふさわしい過酷な事件が振りかかる。しかし、花絵はそれで苦しみはするものの、取り乱したりすることはない。あくまで彼女はすべてを受け入れてゆくのだ。

 この、正常な情緒が麻痺したような描写は、たしかに「鬱」のそれであるかもしれない。そういう意味では、この作品こそは正しい「鬱小説」ということになるだろう。

 ぼくもそうだが、この小説の雰囲気に共鳴したり共感したりするひとは、人間としてあまり健康ではないということになる。べつだん、中二病めいた誇りを込めてそういうのではなく、ここで描かれているのは、生命としてあまりに脆弱なありようであるように思うのだ。

 フラジャイル――脆い、壊れやすい、を意味するこの言葉が、あるいは唐辺葉介の小説を説明する時、最も適切な言葉であるかもしれない。

 かれはフラジャイルなる精神が、世界に満ちるあまりにも凄まじい暴力に耐えかねて失くなってゆくさまを、ただしずかに描く作家なのである。

 「尼子主がいない『SWAN SONG』」であるこの作品は、『SWAN SONG』とはそうとうに異質な印象を与える。しかし、同じ世界観であることは間違いない。ただ、眺める角度が違うだけだ。

 この世界はあまりにも醜悪で残酷で耐えられないほどの喧騒に満ち満ちた場所である、という世界観を、尼子司ではなく、佐々木柚香の視点から眺めているのが、唐辺葉介の小説なのだと思う。

 少なくとも、唐辺葉介名義になってからの作品はいずれも、運命と戦うのではなく、運命を受け入れることを選んだ人々を描いている。しずかで、冷たく、それでいてほのかにあたたかいような、ふしぎな読後感をのこす作品ばかりだ。

 こうなって来ると、むしろどこから尼子司というキャラクターが生まれてきたのか気になる。おそらく、瀬戸口廉也である唐辺葉介のキャリアにおいては、尼子司というキャラクターのほうが異常な特異点であるのかもしれない。そう考えると、しっくり来る。