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 この頃、読みさしで中断していたいくつかの「小説家になろう」作品の続きを読んでいます。そのひとつが津田彷徨さんの『やる気なし英雄譚』。これがめっぽう面白い。

 ユイ・イスターツという名の「やる気のない」青年を主人公にしたお話なのですが、読み始めるとすいすい読めてしまうこともあって、最近、はまっています。

 作者によると、『機動警察パトレイバー』の後藤喜一から発想を得たキャラクターということで、なるほど、あまりに切れすぎ、有能すぎるために中央から疎まれて左遷させられているというところが似ていますね。

 怠け者の天才ということで、『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーを想起する人もいるようですが、あくまでモデルは後藤隊長、とのことです。

 そしてたしかにじっさい読んでみると、ヤンとはまったく違っているな、という印象です。で、ぼくは後藤とも違うと思う。

 ヤンとか後藤は、天才的な頭脳を持っていながら、一見するとそれがわからないというキャラクターであるわけです。『忠臣蔵』の大石内蔵助(正確には大星由良之助)以来伝統の昼行灯キャラというか。

 まあ、大石内蔵助の昼行灯はあくまでも偽装であって、ヤンとか後藤は本心から怠けているわけなんですけれどね。

 一方、ユイ・イスターツもたしかに「理解されない天才」の類型ではあるのですが、かれの場合、見る人が見れば一瞬でその才能がわかります。

 じっさい、多くの理解者に恵まれていますし、むしろわからないのはバカだけ、といってもいいくらい。どう見ても国家の柱石たるべき人材なんですよ。

 したがって、この小説は通常の英雄譚をひとひねりした『銀英伝』や『パトレイバー』とは異なり、ほぼストレートな英雄譚といえるかと思います。

 ところが、ストレートなヒーローの文脈を突き詰めていくと、責任(responsibility)の問題が付きまとうことはいままで語ってきた通りです。

 無敵の能力を持つヒーローであればあるほど、際限なく重い責任(無限責任)を背負い込んでしまうものなのです。

 このことがいちばん良くわかる物語は映画『ダークナイト』でしょう。ハリウッドのヒーロー映画のなかでも伝説的な傑作と称されるこの作品において、主人公のバットマンはそれはもう傷つき、悩み、苦しみ、そのあげくに自ら「悪の象徴」となることを選びます。見ていて痛々しい限りです。

 続編の『ダークナイト・ライジング』では一応、物語はハッピーエンドを迎えるのですが、べつにこの無限責任問題は解決したわけではありません。ただ、バットマンがそこから降りただけです。

 つまり、現代においてユイ・イスターツのような天才型主人公を設定すると、あっというまに無数の助けを求める人々の「呼びかけ」がのしかかって来て、それに一々responseしないといけなくなり、『ダークナイト』的に暗くて深刻な話になってしまいそうなところなのです。

 桂正和の『ZETMAN』なんかは完全にそのパターンですね。『ZETMAN』の主人公は心清く美しい「正義の味方」なのですが、まさにそうであるからこそ、悪の象徴として人々の憎悪を一身に集めることになってしまいます。

 ヒーローがひとりでありとあらゆる悪を背負う「生贄の王の類型」です。洋の東西を問わず、ヒーローがどこまでも誠実に責任を果たそうとするとどうしてもこういうことになってしまいがちなんですね。

 ただ、この問題の当面の解決策はあきらかです。