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きのう、テレビでフィギュアスケートを観ていた。生放送で羽生結弦が怪我をし、そしてその怪我を抱えたまま滑る姿を見て圧倒された。
多くの人がいうように、「美談」にして良いケースではないだろう。しかし、それはそれとして、蒼白い顔色のまま滑る羽生選手の凄絶なまでの美しさには魅了させられた。つくづく思う。世の中には凄い人間がいるものだ。
果たして羽生は滑って良かったのか、それとも棄権するべきだったのか、おそらくいまなお賛否が分かれているところだろう。
ぼくの意見はシンプルである。「羽生の人生なのだから羽生が決めていい。しかし、それを他者の規範にしてはならない」。これだけ。
ぼくは羽生が滑ったことが「正しい」とは思わない。そもそもこれはそもそも何が正しいとか間違えていると客観的に決めることができる問題ではないと思うのだ。
羽生結弦個人の選択の問題であり、そしてかれは滑ることを選んだ。それだけのことで、そこに理非はない、とぼくは考える。
残念だったのは、Twitterなどを見ていると「漫画とは違うのだからやめてほしい」という声が散見されたことだ。「しょせん漫画なんてただの絵空事」、「現実とは違う」という、「常識的」な考え方の人にしてみればそう思えるのだろう。
世の中の大半の人間がそういうあたりまえの価値観を持っているのだろうし、それはべつに悪いことではない。しかし、ぼくは違う。ぼくはむしろ、スポーツ漫画こそ、こうした事態に対する思索を重ねてきたジャンルであると考える。
そうでなくても、怪我をおしてリンクに挑む羽生を観ていて、『SLAM DUNK』を思い出したという人は多いのではないだろうか。
名作バスケットボール漫画『SLAM DUNK』で、主人公の桜木花道は背中の怪我とそれによる激痛を抱えたまま試合に出場する。選手生命すら危うい危機よりもなお重い価値を試合出場に見いだしたわけである。
ただ、桜木と羽生では事情が違う、ということもできる。桜木にとって、その試合はまさにすべてを蕩尽するに値する重要な試合だった。羽生にとっては、客観的に見れば、おそらくそうではないだろう。複数ある大会のひとつと考えることが当然であるはずだ。
かつて出場を止めようとする監督に向い、桜木はいったものだ。「オヤジの栄光時代はいつだよ… 全日本のときか? オレは今なんだよ!!」。
これなら理解できる、という人は多いのではないか。つまり、たとえばオリンピックの決勝といった重要な舞台(=栄光時代)なら、棄権せずに出場することはわかる。しかし、何も相対的に小さな、価値が低い大会で命を賭けなくてもいいではないか。それがごく常識的な考え方だと思う。
しかし――ぼくは観ていて戦慄せざるを得なかったのだが、そんなぼくのような考え方を羽生はしていないのだろう。羽生結弦その人にとっては、いつだって「栄光時代は今」なのだ。そうとしか考えられない。
その大会がオリンピックだろうがより小さな大会だろうが、かれにとっては関係ないのだろう。「将来」のために「今」はほどほどにしておく、という発想で滑っていないのだと思われる。
だからこそ、何度も転倒しながら、それでも滑った。文字通り命がけで。
批判があることもわかる。後進のためにはあえて滑らないことを選ぶべきだった、という主張もわかる。しかし、羽生の人生は羽生のものだ。何に命を賭けるのか、それはかれ自身に決める権利がある。
たとえ、ひとにとっては愚かしく、ばかばかしい選択であるとしても、選ぶのはあくまでかれ自身である。コーチであろうが監督であろうが、あくまで外野でしかない。
そして、
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