ぼくは小説であれ漫画であれ映画であれ、物語と名の付くものが大好きな人間なのですが、それだけに物語の良し悪しについてはうるさいところがあります。

 で、常々疑問に思っていることが、「若い頃、非常に優れた作品を作っていたクリエイターが、歳を取ると衰えるのはなぜだろう?」ということです。

 なぜも何も、加齢とともに能力が衰えるのは一般的なことかもしれませんが、それにしても時とともに成長していける作家の少なさは恐ろしいものがあるように思えます。

 決して才能がないわけではない、十分に優れた素質を備えているように見え、またじっさいにそれなりの実績を示した作家たちですら、時が過ぎると作品のクオリティを落とすように見える。これはいったいなぜなのか。

 まあ、ぼくは作家ではないからほんとうの答えはわからないのですが、ひとつ考えがあります。

 それは結局、やっぱりどこかで力を抜いているからじゃないかということです。

 もちろん、本人は手抜きをしているつもりはないんだろうけれど、無意識にせよどこか楽をしちゃっているんじゃないか、というのがぼくの予想。

 というのも、物語を構成するということは、本質的に窮屈なことだと思うのですね。

 少なくとも、書きたいことをただ書きたいように並べていけばいい、というものではない。

 その物語のオープニングやクライマックスやエンディングを効果的に演出するための緻密な計算が必要なのです。

 この計算が、歳を取ると面倒になって来るんじゃないかな、とぼくは思ったりします。

 もちろん、真相はわかりませんが、大作家の全集なんかを見ていると、後期の作品ほど大長編が増える傾向があると思うんですよね。

 これはやはり物語を圧縮する能力が下がるせいなんじゃないかと。

 ごく常識的に考えて、巨匠と呼ばれて好きなものを好きなように書いてもだれにも文句をいわれなくなった作家が、なお、自分の作品を窮屈な公式にあてはめて書こうとするかというと――自分はもう奔放に書いても大丈夫だ、と思ってしまうんじゃないか、と予想したりします。

 でも、物語を自由奔放に書くのって、やっぱり致命的だと思うのですよ。

 あるいは、それでも傑作を書けてしまう天才はいるのかもしれない。

 でも、それはやはり意識下できちんと計算をしている結果なんじゃないか。

 「ただなんとなく書きたいように」書くのではやはりダメなんじゃないか。そう思います。

 ただ、ね、たぶん物語を作っているほうとしては、奔放に作りたいものを作っていくほうが楽だし、気持ちいいと思うのです。

 構成なんていう頭を使う面倒な作業は避けて、そのぶん、存分に想像力を働かせて壮大な物語を考えることのほうが、楽しいと感じる人が多いんじゃないかと。

 歳とってそういう楽しさに目覚めてしまうと、やめられないんじゃないかなあ、と想像します。

 でも、そういう作家が書く作品は、作家自身は楽しんでいても読むほうとしてはあまり面白くないものに仕上がったりするわけです。

 書き手が楽しければそれは読み手に伝染するものだ、といういい方をする人もいますが、それはたぶん半分しか正しくない。

 作家が真剣に物語を楽しんでいればそれが読者に伝わることはたしかですが、作家が気楽に書けば読者も楽しくなる、というものではないのです。

 べつに苦しみながら書くのが正解だとはいわないけれど、たとえば囲碁や将棋で正着、つまり「たったひとつの正しい一手」を見つけ出す作業が苦しいとすれば、物語を書くことも同じように苦しいでしょう。

 しかし、その作業を超えないとどうしたって印象的な物語は書けない。

 物語とは「山あり谷あり」だからこそ面白いものなのであって、延々と山が続いたり、あるいは谷ばかりだったりしては良くないのです。

 だから計算が必要になる。一種の建築ですね。そのようにして作られた物語を、ぼくは「美しい」と形容します。

 そのような美しい物語を作る能力はやはり若い頃のほうが高い傾向がある、例外はあるにせよ、ということです。

 残念ではありますが、それが現実なのではないでしょうか。

 ただ、ですね。これをいいだすとまた長くなるのですが、このような思想に対し、「べつに冗長でもいいじゃん」、「同じことの繰り返しでもかまわないじゃん」という思想はありえます。