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 そいつは、見たことのある顔をしていた。
 森の中から、ふたりで、ずっとおれに話しかけてきた、あの声を発していたやつらのかたわれだ。
 説教師(マニパ)ツオギェル――
 そう名のっていたっけ。
 そいつが、話しかけてくるのである。
 もう、やめろ――と。
 もう、いいではないかと。
 なんだか、うるさい。
 なんだか、わずらわしい。
 大きなお世話ではないか。
 こんなに、自分は今、満ち足りていて、しかも気持ちがいいのに。
 どうして、これをやめねばならないのか。
 そうだ。
 こんなに、幸せなのに……
 だが、妙に不安になる。
 おまえは、どうして、そんな哀しそうな顔をするのだ。
 さっきの、二本足の大きな漢(おとこ)も、そうだ。
 哀しそうな顔で、おれを見ていた。
 そんな眼で、見られたくない。
 そんなに哀しい眼で、おれを見るんじゃない。
 哀れに思われたり、可哀そうに思われたりするなら、怖がられた方が、まだマシではないか。
 恐れられた方がいい。
 独りでもいい。
 独りというのは、もともと、よく研がれた薄い刃物の上に、素足で立つようなものだ。
 いつ、バランスが崩れて、自分の足を傷つけてしまうかわからない。
 それでもいいのだ。
 哀れな人間でいるより、怖れられる獣でいることの方が、おれはいいのだ。
 あんまり、そこをうるさく言われると、
 ほら――
 また、背骨が曲がる。
 ぎしっ、
 みしっ、
 そういう音が、耳に響く。
 自分の骨が、曲がる音だ。
 変形(へんぎよう)してゆく音だ。
 ふふん、
 あんまり、うるさいことを言うのなら、もう一度、また、あの獣になって、おまえらみんな、喰ってやろうか。
 その時、もうひとりのやつが出てきて、服を脱ぎはじめたのだ。
 何だろう。
 何をする気だろう。
 額から、二本の角まで伸ばしている。
 ふわっ、
 と、そいつが、月の光の中に浮きあがった。
「麗……」
 と、そいつの声が聴こえた。
 麗?
 何のことだ。
 人の名前か。
 その麗というのは、このおれの名か。
 宙に浮いたそいつは、ゆっくりと、おれの眼の前に舞いおりてきた。
 半分、獣の顔をしている。
 しかし、なんとも痛ましい眼で、おれを見るのだ、そいつは。
 気にいらない。
 さざ波のように、怒りが広がりかけたが、それがおさまったのは、そいつの顔が妙になつかしかったからだ。
 こんな面をしているのに、どこか、遠い昔、自分はこの顔の人間を知っていたのではなかったか。
 そのことを考えると、じんわりとした温かみが、身体の中に満ちてくるようだった。
「息子よ……」
 と、そいつは言った。
 息子!?
 何だ、息子というのは。
 おれが、おまえの子供だというのか。
 その時、ふいに、おれの身体は、そいつに抱きつかれていた。
 きえええ……
 ぎいいい……
 おれの身体から生えているものたちが反応し、そいつに噛みついた。
 肉を噛みちぎり、啖(くら)う。
「かまわん、麗……」
 と、そいつは言った。
「息子よ、おれを啖え」
 と。




初出 「一冊の本 2013年10月号」朝日新聞出版発行

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