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K-1創始者にして90年代に勃興した格闘技ブームをプロデュースした男、正道会館館長・石井和義インタビュー! テレビ局、行政、ニューメディア……格闘技界は世間とどう向き合っていけばいいのか? そのヒントが詰まった13000字インタビューです。押忍!
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・【1万字インタビュー】シュウ・ヒラタが「RIZIN大好きさん」とのバトルの内幕を激白!
――コロナ過において「格闘技界と行政」の関係が取り沙汰されていますが、石井館長がK-1で陣頭指揮を取られていたときはそのへんはしっかりとした関係を築いていました。なにしろあの国立競技場を借りれるほどで。
石井 ああ、国立競技場で『Dynamite!』をやったねぇ(懐かしそうに)。
――行政以外にもテレビ局やスポンサーとの結びつきは強かったので、今日はそのへんのお話を伺わせてください。まずあのとき『Dynamite!』ができたので、いまでも国立競技場を簡単に借りれるように見えるんですけど、現実的には相当難しい。あのときも当初は国立の使用はNGだったと伺っています。
石井 当時K-1を手伝っていた谷川(貞治)さんと柳沢(忠之)さん、ボクは彼らを「TYコンビ」と呼んでいたんだけど、最初にあの2人が話を進めていたんです。彼らがどのへんに話を持っていったのかは知らないですよ。でも、なかなかうまくいかずに「やっぱり館長、お願いします」と言ってきて「ああ、いいよ」と。これがもう簡単なんだよね。
――いや、簡単ではないと思います!(笑)。
石井 いやいや、ホントに簡単ですよ。まず国立競技場がどこの管轄なのかを調べて、あそこは当時の文部省の管轄だから、文部省からOKが出ればいいと。その文部省の一番偉い人は森喜朗さんだったから、森さんのほうから口を利いてもらえば借りられるなと。実際に森さんにお願いしに行ったら、それでOKということで。
――……言葉にすれば凄く簡単ですけど、まず森さんに会うことも難しいと思います。すでにお知り合いだったんですか?
石井 もちろん。森さん本人とその息子もね。息子さんはもう亡くなったんだけど、当時その息子さんと知り合いの社長がいて、ボクはその人とも仲良かったんですよ。住んでる場所が港区だから、みんな繋がってるんですよね。
――港区?
石井 やっぱり日本は港区、千代田区、中央区にあらゆる業界のトップが集中しているから。ここにポンと爆弾を落としたらたぶん日本は終わり(笑)。
――凄い話です(笑)。
石井 だから国立競技場を借りるにしてに普段から無駄……というと変だけど、無駄な付き合いをしなくちゃいけないんです。無駄なことが、いざとなったときに大切になる。いざというときに役に立つ人というのは、普段は役に立たない人なんですよ。これ、いい言葉でしょ?(笑)。
――中国戦国時代・孟嘗君の「鶏鳴狗盗」に通じますが、付き合う人が普段から有能な大物すぎて館長にしか言えない言葉ですねぇ。
石井 普段は森さんと話すことはあまりないですよ。でも、普段から人との付き合いは切らないで縁を繋いでおかないといけない。たまに「ご飯どうですか?」「お元気ですか?」と。森さんは格闘技は好きやから『Dynamite!』の当日だって朝から会場に来てもらって、ボクはずーっと一緒に見てましたからね(笑)。
――逆にいうと、コネがなかったら国立競技場を借りるのは難しかったということなんですよね。実際にそれまで国立競技場ではアーティストのライブもできてませんでしたし……。
石井 あのときのプロの興行に貸してくれたのは、ボクらが初めてでしたからね。
――いやあ、ちょっと信じられないですね……。
石井 『Dynamite!』は主催がTBS。ボクがTBSと契約して「総合プロデューサー・石井和義」というかたちでやったんだけど。現場は谷川、柳沢、榊原(信行)、森下(直人)というメンツで、K-1とPRIDEが合同運営するという。あの当時、PRIDEはお金が大変だったんで「じゃあ、運営をやってください」ということで2億円投げたんですよ。
――2億円!
石井 本当は1億円ぐらいでできると思うんだけど。
――1億円でできるのに、なぜ2億円を渡したんですか?
石井 だってお金がないって言うから(笑)。大きな夢が実現するんだから、そのぐらいしてもいいかなと。しかも先払いですよ。
――2億円先払い!!
石井 それでPRIDEは息を吹き返したんじゃないかな。
――当時のPRIDEはゴールデンタイムでやっていたわけじゃないし、興行的に苦しかったですね。
石井 つまり、開催資金は全てボクの会社から全部出てるから、結局『Dynamite!』はK-1がやったイベントなんだよね。「なぜPRIDEがやったことになってるの?」と思うけど、まあそれはそう見せたかったんだろうし、それで元気になってみんなが食べていけるんだったら、それはそれでいいのかなと。
――屋外の国立競技場でイベントをやることのリスクはありましたよね?
石井 雨天延期になったら2億円ぐらいは損してましたよね。
――また2億円!
石井 とにかく雨が降らんように「絶対に藤原紀香を呼ぶなよ」と言ったりしてね(笑)。紀香さんは雨女なんだよね。そういう噂があったから「呼ばないほうがいいよね」って。
――ゲン担ぎじゃないですけど。
石井 雨が降ったらマイナス2億円ですから。まあ、べつに失敗しても金で済むことですけど、当時はお金あったから。普通預金が20億円ぐらいあったし。
――に、に、に、20億円!!
石井 20億円あった(笑)。2002年の年末の時点、大晦日のイベントをやる前に10億8000万円ぐらいあったから。そのあとに年末のK-1WGPの金が入るし、『Dynamiet!!』の金も入るから、けっこうあったんですよ。
――“けっこう”どころじゃないです(笑)。
石井 ボクはその翌年の年明けに脱税の件で捕まってるから、資金はそのままTYコンビが引き継いでる。しかも当時はフジテレビ、日本テレビ、TBSの3局でK-1の興行があって、のちに総合格闘技のHERO’Sもゴールデンで始まったからね。
――興行をやればやるほど、放映権料がガンガン入ってくる状況だったという。
石井 だから資金も心配なし安心して彼らに任せたというか、それがどうしてあんなふうに……まあ、いまさら振り返っても仕方ないですけどね。
――00年代格闘技を語る上で欠かせないのは、やっぱりテレビでした。K-1が90年代に人気が上昇していったのはフジテレビの存在が大きかったですが、テレビ局との接点づくりは、どこから始まったんですか?
石井 接点なんか何もなかったですよ。テレビに出る気もなかったですし。だって、その頃ビデオが売れてましからね。あの『正道会館vsUSA大山空手』のビデオが定価9800円で1万本も売れたんだから。
――つまり、売上1億円! あの大会に出場した選手たちのファイトマネーはそこまで高いわけではないですね。
石井 みんなアマチュアですからね。ウィリー(・ウィリアムス)だけはちゃんとしたギャラを上げたんですけど。でも、あのときの映像はコンコルド21という風間健さんの会社が撮って販売したんです。ボクらは風間さんからたしか700万円もらってUSA大山空手と350万円ずつ分けたのかな。
――つまり買い切りだったんですね。正道会館自体はビデオ販売では儲かってなかった。
石井 ビデオ以外の大会利益は1400万円ぐらいかな? それはUSA大山空手と750万円ずつキチンと分けた記憶がありますね。で、あの大会でやり方がわかったから、次にやった『格闘技オリンピック』からは自分たちでビデオを撮るようにしたんですよね。
――それだけビデオが売れるんなら自分たちで制作・販売したほうがいいですよね。
石井 そうやって『格闘技オリンピック』をやっているとフジテレビのスポーツ部で柔道や空手をやっていた磯部さんという方から声がかかったんですよ。『LIVE UFO』というフジサンケイグループ主催の大きなイベントがあって、その中でスポーツフェアで何か格闘技のイベントをやってくれませんか?と。最初は向こうも代々木第二のクラスを予定してたんだけど、じつはその頃、ボクはキックの世界チャンピオンを集めて8人トーナメントを計画してたんですよ。
――フジテレビ関係なくビッグマッチのプロジェクトがあったんですね。
石井 『正道会館vsUSA大山空手』と『格闘技オリンピック』の3大会合計4大会の利益5000万円を元手に開催しよう、と。その企画をフジテレビに話したら、代々木第二から代々木第一の大会場に変更してくれて。正直な話、べつにフジテレビと組む必要はなかったんだけど。
――当時はまだ地上波というのは意識していなかったんですか?
石井 そのときはまったくなかった。だってビデオが売れてるから、地上波で売りたいという発想はなかったですね。だってフジテレビの話も地上波で放送するということではなくて、イベントをやりましょうというものだったから。ただ、ボクは自覚がなかったんだけど、周りからは「凄いですね!」と言われました。前ちゃん(前田日明)からも「館長いいですね! フジテレビですか?」と羨ましがってたから、「これはラッキー!」みたいな(笑)。
――当時のプロレス・格闘技は地上波での露出はあまりなかったですもんね。
石井 その企画は「10万ドル争奪世界最強トーナメント」という名前でだったんだけど、そこで初めて「K-1」というタイトルをつけたんですよ。フジテレビがF-1の中継をやっていて人気だから、ボクらも格闘技に命を懸けてやってるのは一緒だし、空手、ボクシング、拳法の「K」の最高のステージということで「K-1」。営業もチケット売るときに「K-1、K-1」とアピールしたほうが短くて言いやすいじゃないですか。そしたら「10万ドル」という見出しよりも「K-1」という名前のほうがだんだん浸透してきてね。最初のポスターは「10万ドル争奪世界最強トーナメント」という文字を大きく載せてたんだけど、次のポスターは「K-1」の文字を大きくしたんですよ。
――まず「10万ドル争奪世界最強トーナメント」ありきだったんですね。
石井 そうこうしているうちに「深夜で放送します」と。こっちからすると「放送したらビデオ売れなくなるなあ」と思っちゃってね。
――それくらい当時はビデオ販売が大きな柱だったんですねぇ。
石井 当時はフジテレビのカメラも入っていたけど、ウチのカメラも入ってたから。両方とも5~6台のカメラが入っている体制がゴールデンタイムまで続くんですよ。そのうちウチのカメラが7台、フジテレビが7台で計14台のカメラが入るようになってきて、カメラの位置取りでウチのクルーと向こうのクルーがケンカになったりして。それでフジテレビのほうから「テープをすべてあげますので、ウチだけのカメラにしてもらえませんか?」と。それが谷川さんがプロデューサーの時代になってから、その約束がどうなったかはボクは知らないけどね。
――話を戻すと、一発目のK-1が大反響だったわけですね。
石井 放送は深夜の遅い時間だったのに視聴率3.8%という凄くいい数字だったんです。関西テレビは夜中の3時にやって視聴率が7.8%だったんですよ。それで関西テレビが驚いた。関西テレビは当初「K-1は放送しない」と言ってたから、ボクは関西の放送に関してはTBS、つまり毎日放送と交渉してたんだよね。
――それって、局をまたいで放送しようとしていたということですか?
石井 だって、最初にフジテレビに話したら「関西はやらないと言ってるんですよ」と言うから。それでTBSの取締役室かなんかまで足を運んで「じゃあ、毎日放送は全国的にバックアップしてやります」という話になった。そうしたら関西テレビが視聴率を見てビックリして「ちょっと待ってください。もう関テレでやりますから」と。
――いかにテレビ局が数字に敏感かがわかりますねえ。
石井 フジテレビには「毎日放送と話をしたから無理」と言ったけど、「関西でもやっておかないとフジテレビでは今後ゴールデンタイムで放送できなくなりますよ」と言われてね。仕方がないからTBSに謝りに行きましたよ。
――あの放送が大成功だったことで、フジテレビもK-1を徐々にプッシュするように動いていったんですね。
石井 フジテレビは最初の頃は日曜日の昼間に放送してて、そこでも視聴率が高かったので「ゴールデンでやりませんか?」という話があったんだけど、ボクはまだちょっと早いかなと思って断ってたんです。だってゴールデンでやったらチケット売れなくなるし、ビデオも売れなくなりますからね(笑)。
――ゴールデンタイムの放映権料は魅力的ではなかったんですか?
石井 まだ放映権料も安かったからね。96年のK-1スターウォーズ、アンディ(・フグ)らの試合からゴールデンをやったけど、まともな放映権料をもらえるようになったのは、その頃からだから。
――逆に早く乗っからなくてよかったということなんですね。
石井 そうそう。あんまりゴールデンを意識してなかったから。
――でも、深夜や昼間の放送と言えども、地上波の影響力は大きかったですよね?
石井 それはやっぱり大きかった。だから、RIZINはいまフジテレビが逃げたら終わりですよ。何がなんでもフジテレビを掴んでおかないといけない。
――そういったテレビ局との付き合いの中で、館長が一番気をつけたことってなんですか?
石井 うーん、やっぱり視聴率かな。
――やっぱりテレビは視聴率。
石井 ただ、チケットが売れるから視聴率が上がる。これは絶対ですよ。チケットが余っているようなイベントは、絶対に視聴率は上がらない。最初のK-1WGPのときなんか10分でソールドアウトだったもんね。
――10分ですか! あくまで個人的の印象ですけど、90年代前半のK-1はプロレス・格闘技ファンだけで埋まってたのが、90年代中期から一般ファンが徐々に増えていったような気がするんですよね。
石井 それは戦略的に女の子たちを増やしていったから。深夜番組なんかでは内田有紀ちゃんなどの女性タレントを出して「K-1のここが面白い」みたいなことをやってね。女の子が来ると男も一緒について来る。いい女を集めるといい男も集まるんですよ。
――そういう戦略を狙ってたんですね。
石井 とにかく一番最初にチケットがない状況を作らないとダメなんだよね。チケットが一発でなくなっても、事業枠でテレビCMの枠を取ってるからK-1のCMは流れるわけでしょ。チケットないのにCM流すから「観に行きたい!」となってもチケットは本当にない。
――そうなると、次の大会はすぐにチケットを買わなきゃってなりますよね。
石井 本当にないと、みんな欲しがる。でも「まだまだあるよ」と言われると欲しくない。不思議なもんですよ。
――変な話、招待券が余っているような大会だとファン心理からしても行こうと思わないですよね。
石井 そんなんじゃ視聴率は取れないですよ。いまのことはわからないけど、RIZINやK-1はプレイガイドで売れてるのかな? というのがポイントですね。選手が手売りで売ってるような状況ではダメ。選手に渡すチケットがないぐらいの感じじゃないと。たとえば20試合ぐらい組むと出場選手が40人。1人100枚やったら4000枚。残り4000枚をファンクラブでちょこちょこ売って……という作戦ではいけない。「天心を見たい」「朝倉兄弟を見たい」「武尊を見たい」……それでファンの人たちが買いまくるという感じじゃないとね。
――ところで、当時のK-1の興行はフジテレビの事業部が主催のときもあってたんですよね?
石井 K-1WGPは年末の決勝戦だけね。決勝戦はテレビ局に興行権をあげたんですよ。
――一番儲かりそうな大会の興行権をあげたんですか!?
13000字ロングインタビューはまだまだ続く!
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コメント
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やっぱり石井館長好きだわー
深い話だ
面白い
確かに、地上波あり、対外的もmmaみたくライバルも少ないキックなのに、K1が借金、未払い地獄になったのは、よっぽど酷かった何かがあるんだろ。逆に、それと比べたら、今のK1って、よく経営成り立ってると思うわ