WWEスーパースターにして“猪木最後の弟子”中邑真輔が語るアントニオ猪木!16000字インタビューで「猪木と怒り」を語っていただきました!(聞き手/ジャン斉藤)
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・ズンドコから見た我らが英雄アントニオ猪木
――中邑さん、今日はよろしくお願いします。
中邑 おひさしぶりですね。
――取材自体は10年ぶりくらいなんですよね。今日は猪木さんについておうかがいしたいんですが、中邑さんは猪木さんの告別式に参列するために帰国されていたんですよね。
中邑 そうです。告別式が14日の金曜日にありまして、土日を日本で過ごして、月曜日にアメリカに帰りました。
――アメリカのスポーツってプライベートな事情なら、緊急休暇が取れたりしますけど、WWEもそうなんですか?
中邑 出産だったり、家族の冠婚葬祭で休暇というかたちは取れますね。育児休暇を取る選手もいますし。
――長い休暇を取る選手もけっこういますもんね。
中邑 そのぶん契約期間は伸びるんでしょうけど。あんまりよくわかってないです(笑)。
――中邑さんの場合は、長い休暇を取ってるイメージはないですね。
中邑 そう考えると、ボクがこういった休暇を取るのはたぶん今回が初めてですね。1年に1回ぐらい1週間ぐらいのバケーションという名の休暇を取ることはあるんですけど。今回は試合の予定は普通に入っていたんで、会社の許可が降りるか半信半疑だったんですけど。トリプルHに「猪木さんのお葬式に出るから休みたい」と伝えたら、すぐにオッケーが出ました。
――初めて休暇を取るほど、直弟子として猪木さんの最期を見届けたい思いが強かったってことですね。
中邑 衝動的に「すぐに行かなきゃ!」と思っちゃいましたね。
――猪木さんの訃報はどうやって知ったんですか?
中邑 それはWWEの試合会場ですね。自分の試合準備をしている最中に、携帯をいじっていたレスラー仲間の「アントニオ猪木が死んだ」という言葉が聞こえてきて……すぐさまチェックした感じです。
――どういった感情がありましたか?
中邑 なんかもう、いろいろですよね……。体調がすごく悪いっていうことは、メディアを通じて知ってはいたんですけれど。ついにこの日がやってきた……っていうような感じではあったんですけども、あまりにも急で。回復したり、リハビリしているとは思っていましたから。
――YouTubeなんかで闘病中の姿をさらけ出していたことはどう見られてたんですか?
中邑 それはそれで猪木さんらしいなと。ただ、最後に会ったのは、元気な頃の猪木さん。入院されてからは一気に骨と皮になっちゃったような感じで、映像では見てはいたんですけど、現実味を感じてなかったというか。
――いまだに亡くなった実感はないところもありますねぇ。中邑さんといえば、猪木さんといろいろやりあった最後のプロレスラーじゃないですか。
中邑 ハハハハハハ。いろいろありましたねぇ……(しみじみと)。
――アントニオ猪木というプロレスラーが覗かせる顔って、年代によって違ってきますよね。70年代だったら若獅子時代や格闘技路線、80年代だったらカオス、90年代はフィクサーとしての存在感だったり。中邑さんはどの時代の猪木さんが印象深いんですか?
中邑 フィクサーの前に、たとえば“キラー猪木”……反則なのかどうなのかっていうギリギリのチョークスリーパーで、物議を醸す試合を連発して、ファイナルカウントダウンまで続くという。引退試合が終わってからがフィクサーじゃないですか。そこから自分も、いちプロレスラーとして関わっていくんですけど。天龍源一郎戦やムタ戦の猪木さんは何歳ですか?
――天龍戦は50歳、ムタ戦は51歳ですね。
中邑 その歳であの試合はエグいなって思いますよね。しかも持病を抱えてるわけですよ。プロレス以外の活動もやっていて、コンディションは決していいわけじゃない。いままでいろんな社長レスラーがいっぱいいましたけれど、やっぱりコンディションは崩してましたよね。ちょっと太ってしまったりとか、明らかに練習ができてないなっていう感じだったり。猪木さんはどんなに忙しくても、しっかりコンディションを作ってリングに立っていたんだなと思います。
――90年代の猪木さんって限定参戦でしたけど、どの試合もインパクトがすごいですもんね。
中邑 必ず一捻り投入してくるし。
――WWEでもレジェンドレスラーが年に1回試合をするケースがありますけど、みんな仕上げてきますよね。毎日試合をするわけじゃないのに、よくモチベーションが保てるなって感心するんですけど。
中邑 それはやるつもりがあるからですよね。決まってないけど試合をやるつもりだからコンディションを整えたくなる。ただ単に健康のためだけじゃ無理でしょう。
――新日本プロレスに入団する前のファン時代は、どういう目で猪木さんをごらんになっていたんですか?
中邑 そこはやっぱりちょっと上の世代の方、猪木信者と言われる方たちの捉え方ではなかったでしょうね。
――70年代、80年代のアントニオ猪木に取り憑かれていない。
中邑 ちょっとオモシロが入っていたところはあります。「1、2、3、ダー!!」とか。やっぱりほら、猪木さんはものすごくお茶の間に浸透しているプロレスラーだったので。馬場さんと猪木さんは双璧ですけど、誰もがマネができるという。カッコいいだけじゃない。面白さや、ビジュアル的にもやることなすこと一般的な人間離れしてるところもそうだし。
――プロレスを知らない人間でも引き込まれるキャラクターの魅力ですね。
中邑 業界に入るまでは「テレビで見たことのある人」というか、住んでる世界が違う人という意識があって。どんな世界のカリスマが持ち合わせている共通点というんですかね。「この人はすごく持ってるんだろうな」って。いや、それはプロレスに入ってから気づいたのかなあ……。いま考えれば、猪木さんのやり方はすごく強引な手法だったのかなって。要は自分の好みを押し通すっていうか、それに説得力を持たせる、それってものすごいことだなと思いますけどね。
――猪木さんはよく「客に媚びるな」って口にしてました。
中邑 新日本プロレスに入ってから、スーツを着て挨拶しに行ったときは、さすがにビビりましたよねぇ。「あ、本物だ!」「マジでアントニオ猪木じゃん」って。それこそほら、プロレスファンからしたら天皇陛下のような存在ですから。
――そんな猪木さんとの関係がぐっと近くなったのはいつからですか?
中邑 ロサンゼルス修行のときに肌を合わすことがあったり、プライベートで食事したり、アントニオ猪木ではない猪木寛至個人にちょっと触れ合える機会があったので。
――中邑さんは大学時代のレスリングと、和術慧舟會で総合格闘技のトレーニングを積んでいて。総合格闘技ブームという背景もあったことでデビュー当初から抜擢を受けてましたよね、猪木さんに見込まれていた手応えはあったんですか?
中邑 まず猪木さんから直接、何か言われたこともない。デビュー戦(安田忠夫戦)が終わったあとに巡業についていったにも関わらず、自分の試合は用意されてないばかりか、ホテルの部屋すらなかったんです。
――ホテルの部屋がないってイジメじゃないですよね?(笑)。
中邑 ホントおかしいんですけど(笑)。巡業バスに乗って金沢に到着してホテルにチェックインしようとしたら「中邑選手の部屋はありません」と言われて。「どういうこと?」と思って新日本の事務所に電話したら「おまえはアメリカに行くことになってる」と。
――適当すぎる(笑)。
中邑 とりあえずその晩のホテルを用意してもらって「どうしたもんかな……」と金沢の町をフラフラしてると、(田中)ケロさんにばったり会って。「あれ?アメリカ行くんじゃなかったの?」って。「知ってたんかい!」と思って(笑)。
――中邑さん本人だけが知らなかったわけですね。
中邑 そうです(笑)。後日、事務所に行って、当時社長だった藤波辰爾さんと、倍賞鉄夫さん(当時新日本取締役)とお話をしまして「オマエはアメリカに行ってもらうから」と。あまりにも急だったから「アメリカで何をしたらいいんですかね?」って聞いたら、とくに説明もなく……。 藤波さんは「俺はいつでも海外に行けるようにバックを用意していたんだ。プロレスラーたるもの、いつでもその旅に行けるように用意をしとけ」って思い出話しかしないんですよ。
――昔ながらのやり方ですよね。
中邑 「練習をしたかったら練習したらいい。朝から晩までできるぞ」「とりあえず東京ドームで再デビューさせるから」ってことで。
――デビュー戦もインパクトあったのに再デビューですか。
中邑 もう1回、鍛え直して再デビューと、よくわかんない感じだった。それが猪木さんが「アイツを連れてこい」と言ったのか、どうだったのか。ボクはいまだにわからないですけど、とりあえずロサンゼルスに行くことになったんです。ただ、当時は本当にデビューしたばっかりで、新弟子って外界とまったくコンタクトが取れなかったんですよね。
――新弟子は外出や連絡が禁じられて、娑婆っ気を抜かれるわけですよね。
中邑 毎日のジャージを着て過ごすから、他に服もない。ロサンゼルスに持っていくもんなんかないわけです。リュックひとつでロサンゼルスに行って、あまりにも荷物を持ってないから、空港に迎えに来たサイモン猪木は気づかなかった。
――手荷物だけでアメリカ武者修行に来るわけがないと(笑)。
中邑 そうそうそう(笑)。サイモンさんに見つけてもらって、一緒にロサンゼルスの道場に行って、あらためて猪木さんに挨拶しました。
――旧・ロス道場ですね。
中邑 そこで練習が始まって。ボクも和術慧舟會で寝技はやってて基礎がわかってたから、柔術家とのトレーニングにもついていけたんだけども。柔術家はプロレスは知らないし、そこに来るプロレスラーたちも若かったから一緒にやるプロレスの練習としては、もの足りなかったわけです。そうやって時間を持て余しているときに猪木さんがふらっと道場にやってきては指導してくれることがあって。極めっこの技術を教えてくれることがありましたね。
――有名なのは、猪木さんと中邑さんが1時間近くスパーをやったやつですね。中邑さんがまいったしないから、猪木さんが意地になって延々とスパーが続くという(笑)。
中邑 ハハハハハハ。あれは「いつ終わるんだろう……」と思ってました。ボクは真面目だったから、手を抜いちゃいけないと思ってて。なつかしいなあ。
――そのスパーってどういう状態から始まるんですか?
中邑 ヒザ立ちからですね。猪木さんは下から足を引っ掛けてひっくり返そうとしたり。猪木さんの得意技はたぶんアキレス腱固めだったんでしょうね。下からのガードポジション的な動きはあんまり知らなかったみたいですけど。ゴロゴロゴロゴロ転がってやっていたら、その光景をカメラで撮ろうとした人がいて。猪木さんがギロって睨んでそれをさせないみたいな。
――一般人出入り厳禁のプロレス道場っぽい雰囲気。
中邑 ボクは十字や三角で猪木さんを捉えて、これ以上曲げたら折れる、靭帯が伸びるってかたちになるんですけど、まさか折るわけにいかねえよなって外して。またイチから始まるんですけど……夕方から初めて日が暮れてきた頃にようやく気付くんですよ。これはボクがタップしないと終わらないんじゃないか、と。
――猪木さんも終わるに終われないし。もうちょっと早く気づいてくださいよ!(笑)。
中邑 「もう終わるにはこれしかないんだ」ってやっと気づいて、猪木さんのアキレス腱固めでタップしたんですけど。猪木さん、髪の毛をクシャクシャにして、よだれを垂らしながら「……やるじゃねえかっ!!」って。
――いい話だ!(笑)。当時の猪木さんって60代ですよね。その年齢で中邑さん相手にそれだけやれるスタミナってすごいですよ。あと意地も!
中邑 いや、すげえと思いますよ。あと猪木さんはダブルジョイントで関節が極まらないって言われてますけど、ボクは実際に肌を合わせて確認しましたから。猪木さんの身体はホントに柔らかいし、180度の開脚もできましたもんね。
――レスリングやMMAのトレーニングを経て新日本に入った中邑さんからすると、猪木さんのテクニックから感じたものはありますか?
中邑 極めっこの技術ですよね。日本プロレス時代や新日本時代にカール・ゴッチから教わった技術なのかなぁ。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンにしても、理にかなった動きとして残ってるわけだから、猪木さんがたまに披露する裏技の数々は柔術家も面白いとは言ってましたよ。
コメント
コメントを書く小林邦明さんが「外してやったよ!」と言っていたのは初めて知りましたが、棚橋選手が自ら「小林さんに外してもいいですよねと言ったら、小林さんがそうだなぁと言って外したので、実行犯は僕ではありません(笑)」と語っていた記事は見た記憶があります。
どのエピソードも最高。無難に綺麗事を並べたコメントにならないところに弟子もどきには出せない直弟子ならではの家族愛を感じました。
久しぶりに面白いインタビューでした。
安易に新日本を落とさないし、あの時代、必死にもがいてやるべきと信じたことをやり抜いたという強烈な自負を感じます。
改めて中邑選手は棚橋選手と並んで、2000〜2010年代の新日本そのものだったなと感じました。
素晴らしいインタビューだ!
2002,3年頃、山本小鉄さんとお話する機会があって、前田日明の話をしていて、俺がレスラーは強さと凄み、面白さの3つを備えていてほしいみたいな話をふったら
「うち(新日)に中邑って若い子がいるんですけど、その子は猪木さんまでとは言いませんが日明と同じかそれ以上のスターになる素材なんです!」っていきなり当時無名(正直デビューしてたかも覚えてない)な中邑の名前出されたのを思い出した
後年の中邑の活躍みて「小鉄さんスゲェ!」ってなったよ