閉じる
閉じる
×
★2017年8月にDropkickメルマガで掲載された記事を再録します
シューティング、佐山サトル、ヒクソン・グレイシー……日本格闘技界を変えた超重要人物・中村頼永がすべてを語り尽くすロングインタビューが実現!! 中村氏がUSA修斗代表などを務める詳しい経歴はコチラをご覧になっていただきたいが、どのようにして総合格闘技がつくられていったのか――プロ格者は必読の「シューティング黎明編」2万字インタビュー!(聞き手/ジャン斉藤)
【1記事から購入できるバックナンバー】
・“最後の側近”甘井もとゆきが語るアントニオ猪木&ズッコ夫妻
――シューティング(修斗)やヒクソン・グレイシーを語るうえで中村さんは絶対に欠かせない存在ですが、ロングインタビューを受けられる機会があまりなかったので、こういった取材がお嫌いなのかと思ってました。
中村 いや、そんなことはないんですよ。いろいろとオファーはあるんですけど、たとえばプロレスだけしか取り扱ってないところだと、ボクがしゃべったことすべてを書いてくれない可能性があるじゃないですか。
――ああ、なるほど。修斗の成り立ちを説明する場合、どうしてもプロレスの仕組みに触れないと伝わらないですね。
中村 誤解しないでほしいのはボクはプロレスが嫌いなわけじゃないですよ。弟(中村ユキヒロ)はマスク職人として佐山先生をはじめとして、プロレスラーのマスクを作っていますし。
――今回の取材場所となる「佐山サトル館」もタイガーマスクの覆面や、佐山先生の幼少期の資料が置かれてますね。
中村 ボクは本当のシューティングの歴史や、佐山先生の偉大さを伝えたい思いがずっと心の中にあったんですね。今日発売された『Gスピリッツ』では佐山先生と、スーパータイガージムで一緒にインストラクターをやっていた北原(光騎)が、いままでずっと秘密にしていたことを明かしてるんですよ。だからボクもしゃべっていいのかなあと。
――いまだに明かされていない事実があるとは驚きですし、かなり楽しみです!(笑)。伝えたい思いがあるということは、現在の佐山先生の扱いに引っかかるところがあったということですか?
中村 ずーーーーっとありました! 修斗の創始者である佐山先生のことを軽視してる風潮があるというか、柔道だったら嘉納治五郎、合氣道だったら植芝盛平の写真を道場に飾りますよね。でも、修斗を稽古している道場はたくさんあっても佐山先生の写真を飾ってるところはいくつかしかない。創始者として佐山先生の存在にもっと敬意を表さないといけないし、いま総合格闘技が隆盛を誇っているのは佐山先生の犠牲の上に成り立ってるんです。いまの若い人たちにはそこをわかってもらいたいという気持ちは強いんですね。
――では、本日はたっぷりと伺います! まず中村さんが格闘技に関わるきっかけはブルース・リーなんですよね。
中村 ブルース・リー先生ですね。中学生のときですけど、香港から関連書籍を取り寄せて……。
【中村氏のiPhoneからブルース・リーの怪鳥音が鳴りだす】
中村 あ、電話ですね。あとでかけ直します(笑)。
――怪鳥音が着信音ってさすがですね!(笑)。
中村 ボクの人生は「ブルース・リー」に命を懸けるって中学生のときに決まっちゃったんですよ。でも、職業はアニメーターになろうと思ってたんですね。「ブルース・リー」以前に永井豪先生の洗礼を受けてるんで。
――ブルース・リー&永井豪! 男の子の憧れですね(笑)。
中村 『デビルマン』と『キューティーハニー』。この2作品がボクの人生の血となり肉となってて。いま永井豪先生とは家族ぐるみの付き合いをさせてもらってるんですね。職業はアニメーターだけど、「ブルース・リー」で生きていく。ブルース・リー先生が始めたジークンドーをやりたかったので、香港から本を取り寄せて。それを見ながら自己流で練習したんです。
――最初は自己流だったんですね。
中村 高校生になったら近所の空手道場に通いました。『空手バカ一代』を読んでましたから、当てる空手と当てない空手があることは知っていて。近所の道場は当てる空手だったんですけど、その道場は寛水流だったんです。
――まさかの寛水流!!(笑)。水谷征夫氏と猪木さんが創設した空手団体ですね。
中村 はい。私がいた頃の寛水流はギャング顔負けの戦闘集団でしたから、香港から映画俳優のチャーリー・チャンというホンモノのギャングが挑戦してきたりね。そして、猪木先生が「誰の挑戦でも受ける」ということで、水谷先生も猪木先生に挑戦状を送って。
――野原で決闘する計画があったんですよね。
中村 水谷先生は「俺は鎖鎌を使う。おまえもなんでも使え!」という。新間(寿)先生があいだを取り持って、猪木寛至の「寛」と、水谷征夫の「水」の字を取って「寛水流」を作ることになって。
――水谷先生って猪木さんに決闘を申し込むくらいですから、かなり怖かったんですよね。
中村 怖いですよ。合宿では、普段ボクらが「……怖いな」って思ってる各道場の先生たちを円状に全員立たせて、その中心に水谷先生が立って、無防備に起立している先生たちを順番に殴ったり蹴ったりして倒していくんです。
――それは何をやってるんですか?
中村 いや、わからないです(笑)。
――ハハハハハハハハ! 気合いを入れてるんですかね。
中村 たぶんそうだと思いますね(笑)。ボクの通ってた道場の先生は強面なんですけど、上に行けば行くほどさらに強面になっていくんです。それでも水谷先生の前に立ったら直立不動ですよ。言葉遣いや立ち居振る舞い礼儀礼節、上下関係がとにかく厳しくて。ボクはのちに上京して極真に入るんですけど、寛水流ほど厳しくないので「ヌルッ」って思いましたから(笑)。
――極真がヌルく感じるほど!(笑)。
中村 ただ、当時のボクは近所だから入っただけで、寛水流のことは詳しく知らなくて。猪木vsウィリー・ウィリアムス戦があったときは、極真大好きだったからウィリーを応援してたんですよ。
――空手少年だったらそうなりますね。
中村 あの試合で猪木先生が入場するときは寛水流の先生方がボディガードをやってたんですね。「猪木先生の身に何かあったら……」という。
――ウィリーのセコンドには極真空手家がついていましたけど、どちらのセコンドもリングで何が行われるかを聞いてなかったから、ヒートアップして大乱闘になったわけですね。
中村 試合がどうなるかは一部の人たちしか知らないわけですよ。ボクはそんな背景すら知らないですから。道場で「あれはウィリーの勝ちですよね」って力説したんですよ。そうしたら先輩に「バカヤロー!猪木先生を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」って怒られて。「寛水流の意味を知ってるのか? 寛水流の寛は、猪木先生の寛だぞ!」って言われて初めて知ったんです(笑)。
――そこで初めて猪木さん側だとわかった(笑)。
中村 猪木先生や佐山先生に初めてお会いしたのは寛水流の本部道場の落成式だったんですよ。ボクが入った頃は名古屋に本部道場を建てるということで、日曜日になると道場予定地に穴を掘りに行くんですよね。本部道場は道場生が建てたんです。水谷先生も一緒に土砂を運んでましたから。
――とんでもない経験をされてますね(笑)。
中村 高校卒業して東京のアニメーターの学校に行く直前に落成式があって、ボクも出席したんですけど。出席されたのは猪木先生、坂口征二さん、藤波辰爾さん、タイガーマスク時代の佐山先生、新間先生、ファイティング原田さん、強烈だったのは安藤昇先生(笑)。
――ホンモノじゃないですか!(笑)。
中村 安藤先生は水谷先生をモデルにした『東海の殺人拳』を書いてるときだったんですね。あの場でも異彩を放ってましたねぇ。真樹日佐夫先生張りのサングラスを掛けて、決して目を見せないんですよ(笑)。
――ハハハハハハ!
中村 あの落成式でタイガーマスクが試合をしてくれるということで、リングが組み立てられたんです。タイガーマスクはアニメもプロレスの試合も見てて大ファンだったんですよ。ボクたち兄弟はどうしてもタイガーマスクのサインが欲しくて2人で佐山先生のことを探したんですよね。そうしたら裏の部屋の奥のほうで試合に備えてタイガーマスクのコスチュームでいるところを発見して、ボクたちはその入口でサイン欲しいアピールをしたら、側にいた坂口さんが「ダメダメ!」って……でも佐山先生はそれを遮って「いいよ」ってニッコリ応えてくれて。マスクから覗く目が凄く優しい目でした。それが佐山先生の第一印象だったんですね。
――そこから上京して佐山さんが立ち上げたシューティングに関わるんですね。
中村 上京してアニメーターの学校に通いながら、最初はキックボクシングや空手をやってたんです。本当はジークンドーをやりたかったんですけど、日本に道場はなかったですから。その学校を卒業する直前の1984年2月に佐山先生が二子玉川にタイガージムをオープンするんですよ。佐山先生が提唱されていたキック、パンチ、投げ、関節技の「新格闘技」……いわゆるなんでもありの戦いに憧れていたので、初日に入門しました。
――初日とはさすがですね(笑)。
中村 当然初日です。会員番号1番を狙ってたのに、もうすでにたくさんの人が並んでいて108番だったんですけど(笑)。
中村 でも、そのジムでは格闘技を教えてくれなかったんですよ。二子玉川のタイガージムのあったカルフォルニアシェイプというところは格闘技をやっちゃいけない話になっていて。土地柄ハイソなフィットネスのジムだったんですね。
――コンセプトにそぐわなかったんですね。本格的な格闘技ジムは三軒茶屋のスーパータイガージムになってからで。
中村 タイガージム時代はタックルや基礎体力しかできない。でも、佐山先生から教わったことは貴重なので、ひとつひとつしっかりやってましたよね。ストレッチ腕立て、ヒンズースクワット……佐山先生がいままで培ってきたものですから。練習するときはみんなタイガージムの練習着を着るんですけど、ボクは上だけで、下は拳法着と拳法靴、髪型もブルース・リーカットで。だから佐山先生から「ブルース・リーくん」と呼ばれてたんですけど(笑)。
――絶対にそのあだ名で呼ばれる出で立ちだったんですね(笑)。
中村 その頃はブルース・リーファンクラブのスタッフをやっていて、その会報で佐山先生にインタビューもやってるんですよ。「佐山サトル、ブルース・リーを語る」という企画で。質問事項を当時マネージャーだったショージ・コンチャに見せたら「これはダメよ、これもダメ」とかハネられて。
――出た、ショウジ・コンチャ!(笑)。
中村 胡散臭い人物ですよ。あきらかに悪者だって顔に書いてあって「なんで佐山先生はこんな人間とくっついてるんだろう?」と思ってましたから(笑)。佐山先生は純粋な方なんだろうなって。
――佐山先生はそのショウジ・コンチャと離れて、UWFに参戦しますよね。いわゆる「1984年のUWF」の始まりです。
・「佐山聡の影」になった男
・地獄のプライベートレッスン
・プロレスと格闘技の線引きと
・幻のシューティングvs骨法
・ジークンドー、USA修斗とは何か……2万字インタビューはまだまだ続く
この記事は有料です。記事を購読すると、続きをお読みいただけます。
入会して購読
この記事は過去記事の為、今入会しても読めません。ニコニコポイントでご購入下さい。
コメント
コメントを書く
ドキュメンタリー映画を見てるような、この記事1本で年会費分くらいの濃い内容でした。後半も楽しみにしてます!
1984年と言えばUWFもそうなんだけど「ナウシカ」「ビューティフルドリーマー」「マクロス」の年なんだよね。元アニメーター志望者中村氏としての話も聞いてみたい。
なんか壮大だぞ
これ後編はどうやったら読めるんですか?