それで、エミ子は驚きのあまりその場で腰を抜かしてしまった。すると、女性はそんなエミ子につかつかと歩み寄ってきた。

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 そのため、身の危険を感じたエミ子は、慌てて逃げようとした。
 ――が、間に合わなかった。尻餅をついていて、すぐには起き上がれなかったのだ。
 それで、恐怖に目をつむった瞬間、女性はエミ子の傍らを通り過ぎると、男の子たちの方に歩み寄っていった。
 目を開けたエミ子が再び振り向くと、男の子たちもそれを予期していたのか、すでに逃げの体勢を整えていた。
 それを見て、女性はこう叫んだ。
「ここをどこだと思っているの! いつも歌うなと言ってるでしょうが!」
 すると、驚いたことに一番大人しそうな青い髪の少年が、いきなりこう言い返した。
「うるせえクソババア! 公園はみんなのものだろうが! おまえに指図される覚えはねえ!」
 すると女性も、それに逆上したのか「何を!」と叫ぶと、今度は全速力で男の子たちを追いかけ始めた。
 それで、男の子たちはてんでバラバラに逃げ始めた。そうして、陽も暮れかけた宵闇の街角へとそれぞれ消えていったのだが、それを追いかけていた女性も、やがて姿が見えなくなった。しばらくは、なおも追いかける女性の叫び声が度々聞こえていたが、やがてはそれも聞こえなくなった。
 その光景を、エミ子は道にへたり込んだまま、しばらく呆然と見つめていた。
 ぼくは、そんなエミ子をまた別の物陰からずっと見ていた。本当は、すぐにでも助けに行きたいところだったのだけれど、今出ていけば、さすがにここにいる理由が上手く説明できないと思ったので、仕方なく自重したのだ。

 そんな思わぬアクシデントこそあったものの、それ以外は特にトラブルもないままに、ぼくの転校後の日々は流れていった。
 そして、それから二週間後の、六月二度目の日曜日――。
 この日、エミ子は休日にもかかわらず比較的早くに起き出していた。そうして、自分の部屋で何やらごそごそと鞄に詰め込んだ。
 ――と、そんなエミ子の部屋の引き戸を、智代がいきなりサッと開けて入ってきた(この家の扉には、どれも鍵がかかっていないのだ)。
「エミ子。これから買い物に行くけど、一緒に行かへん?」
 それで、エミ子はびっくりして智代を見た。しかし、荷物はすでに鞄に詰め込んだ後だったので、どうやら中身は見られずにすんだようだ。
「……え? あ、いや、ごめん。今日、ちょっと出かけるから……」
「そう?」
 すると、智代はすぐに部屋を出ていってしまった。
 そんなふうに、智代は突然部屋に入ってきたりもするが、基本的には放任主義で、エミ子のすることにあれこれと口出ししたりしない。だから、エミ子が何かを鞄に詰め込んでいたとしても、それを詮索するような真似はしなかった。
 そうして、智代は一人で買い物に出かけていった。叔父の英二は、この日も仕事なのか、朝からいなかった。
 それでエミ子は、智代が出かけてからしばらく経つと、先ほど何かを詰めていた大きな鞄を抱え、家を出た。

 家を出たエミ子がまずやってきたのは、あの男の子たちが歌を歌っていた公園だ。
 そこでエミ子は、辺りに人影がないことを確かめると、こそこそと公園の女子トイレに入っていった。
 それからきっかり一〇分後、そのトイレから一人の「男の子」が出てきた。その背中には、先ほどエミ子が抱えていた大きな鞄が担がれている。
 その男の子は、背はそれほど高くないものの、見た目は高校生くらいだった。髪は短めで、整髪料で少し逆立てられている。もっとも、それがカツラであることは、よく見れば分かった。
 服は、刺繍が入ったジャンパーに、古着のデニムという少しキザったらしい格好だ。いかにもお洒落に気を遣っている――といった風体である。
 男の子は、トイレから出ると辺りを一瞥し、それから少し胸を反らすと、がに股で米子駅の方へと歩いて行った。
 その男の子は、エミ子だった。エミ子が男装をしているのだ。そうして、そのまま街へと出かけていった。
 実は、これがエミ子の趣味だった。といっても、「男装」ではなく「変装」の方だ。休日になると、別人になりきって街へ出ることが、彼女の隠れた楽しみだったのである。
 ぼくは、事前の情報でそのことを知っていた。でも、それを実際に見るのはこの日が初めてだった。実は、この日もエミ子に内緒で彼女の後をつけていたのだ。
 しかし、このときは正直言って驚かされた。なぜなら、それは変装と分かっているぼくでさえ、咄嗟には見分けがつかないほどの見事な化けっぷりだったから。
 興味深いのは、変装すると姿勢や歩き方、それに態度までガラッと変わってしまうことだった。いつものエミ子は猫背の俯き加減で歩いているのに、この日は胸を張った堂々とした態度で闊歩している。それどころか、街でかわいい女の子とすれ違うと、不躾にジロジロ眺めたりさえしている!
 それは、どこからどう見てもキザったらしい、女好きの若者にしか見えなかった。
 そのエミ子を尾行中、面白い場面に出くわした。米子駅近くの商店街まで来たとき、向こうから智代が歩いてきたのだ。
 それを見て、エミ子もさすがに一瞬怯んだ様子だった。しかし、すぐに体勢を立て直すと、元の通りのがに股で、堂々と智代とすれ違った。それどころか、すれ違う瞬間には、ジロリと一瞥さえくれたのである。
 しかし智代は、そんなことは露知らず、エミ子には目もくれないまま行ってしまった。

 そんなふうに、エミ子はたっぷりと変装を楽しんでから、夕暮れ近くなって再び公園へと戻ってきた。
 そうして、再びトイレに入って着替えようとしたときだった。エミ子はふと、その手前にある、以前男の子たちが歌っていた舞台に目を留めた。そうして束の間考えた後、やおらそこに立つと、何やらいろいろとポーズを取り始めた。
 それは、歌舞伎役者が見栄を決めているかのような仕草だった。
 やがて興が乗ってきたのか、今度は声に出して何かを言い始めた。それは、どうやら芝居の台詞らしい。エミ子は、夢中になってその芝居を演じ始めたのだ。
 ――と、そのときだった。そんなエミ子の肩を、後ろから誰かが掴んだ。
 それで、エミ子はハッとして振り返った。すると、そこにはあのコーラスの男の子たちを追いかけていた女性の姿があった。