ここで、あらためて「明治の北澤楽天」について見ていきたい。

北澤楽天は明治9年(1876年)の生まれだ。進取の気性で若い頃から横浜に出入りし、外国人向けの新聞社」ボックス・オブ・キュリオス」で挿絵画家の職を得た。彼は、海外の文化に強い興味があった。新しもの好きの若者だったのだ。

そこで、先輩の風刺画家でオーストラリア人のナンキベルに大いに刺激され、風刺マンガを描き始める。その後、ナンキベルは退社してアメリカへ移住するが、福澤諭吉の義理の甥である今泉一瓢に引っ張られて、今度は時事新報で描き始める。明治32年(1899年)、楽天23歳のときだ。

ただ、そこで楽天は、風刺を封印することになる。特に政治を風刺しなくなった。というのも、福澤諭吉と彼の作った時事新報という新聞が、政治的に中立の立場だったからだ。福澤は、政治的には中立を保ちながら日本の「文明開化」に熱心だった。取り分け身分制度の打破を目